見出し画像

悪い男〜雨の音〜(前編)

【自堕落な文豪妄想ストーリー(2)】

昼食を済ませ片付けを終えると、夕飯の支度を始めるまではあかりの自由な時間だ。

あかりは自分のためにお茶を淹れ、台所の自分が食事をする場所に座った。
一口お茶を飲みため息をつく。

春先のあの月夜の晩以来、あかりの男への想いは膨らむ一方だ。

「もう少し手を伸ばせば届くかもしれないのに…怖い?」
その言葉を思い出す。

あれはどういう意味だったんだろう?
手を伸ばせば何に届く?
あの時私が手を伸ばしていたら?

考えても答えが出ない問いを頭の中でぐるぐると繰り返す。
その答えを知りたくて、あかりは先生と2人になる機会を心待ちにしていた。

あかりの気持ちとは裏腹にあの夜から男は書斎で過ごす時間が長くなっていった。

あの日、先生は久しぶりに書けそうな気がする。書きたい事が浮かんできていると言っていた。その言葉に嘘は無く、あの日以来先生は書く事に没頭していた。
三度の食事の時間以外は殆ど書斎で過ごし、以前のようにあかりと話をする事も殆どない。

あっという間に桜の季節は終わり、新緑が輝く季節も過ぎ、気がつけば梅雨が始まっている。 
ふと気がつくと湿った空気の匂い。
窓の外を見るとポツポツと雨が降り始めていた。

まるで自分の心のようだ。
どんよりした空を見上げてあかりは思った。

晴れない心を抱えて過ごす日々。
食事の僅かな時間に先生の顔を見て、声を聞く事が今のあかりにとって細やかな楽しみだった。
しかし、昨日から先生は食事の時間になっても姿を現さない。
心配になったあかりは、男の妻ひかりに「奥様、昨日から何も召し上がらずに先生は大丈夫でしょうか?私、何か食べる物をお持ちしましょうか?」と恐る恐る言った。

「あかりちゃん大丈夫よ、書くことに夢中になるとあの人はいつもそうなの。
書いている自分と自分の作品にしか興味がないのよ。お腹が空いたら姿を見せるわ。」
ひかりの言葉は皮肉っぽかったが、その横顔は少し寂しそうに見えた。

その翌日、夕食の時間に先生は姿を見せた。
ウキウキとしていていつもより口数も多くよく笑う。

「今日は気分がいいから…久しぶりに飲もうかな?」食事中に先生が言った。

「あなたが食事中にお酒なんて珍しい。
お酒を飲むと眠くなって書けなくなるから…っていつも言ってるのに」
ひかりが少し驚きつつ答えると…

「たまにはいいよね?ひかりも付き合ってよ。それに、もう殆ど書き終わってるんだ。
今日はこの後書かなくても大丈夫。」
男は強請るようにひかりにそう言うと
「あかりちゃん、ぶどう酒を1本持ってきてくれる?」と微笑んだ。

お酒を飲みながらの食事の時間。
少し興奮したように話す先生と嬉しそうに話を聞くひかりの姿をあかりは台所から見つめていた。

夕食の片付けを終えて明日の朝食の支度をしていると風呂上がりのひかりが台所にやってきた。
「寝る前にもう少しだけぶどう酒を頂くわ。
あかりちゃんも今日はそのくらいにして早く休んでね。」
食器棚から2つグラスを取り出し、ひかりは寝室へ戻っていった。

風呂上がりのひかりからは薔薇のような甘い香りがしていて、あかりの心を波立たせる。 

先生と奥様が一緒に夜を過ごしている。
2人は夫婦なのだから、それは当たり前のこと。3年前あかりがこの家で働き始めた頃はそれが当然のことだった。

しかし、先生が作品を書けなくなると2人の生活は少しずつ変わっていった。
一緒に夕食を取り、食後の寛いだ時間を過ごすと先生は書斎へ奥様は寝室へ。
先生は明け方まで書き続けることもあり、夜中にひかりを起こしたくないから…と書斎にベッドを置きそこで寝ることが増え、今では書斎で眠る事が普通になっていた。

今夜は雨の音がよく聞こえる。
いつもは心地よい疲れに包まれて布団に入るとすぐに眠りにつくあかりだが、布団の中で窓にあたる雨音を聞いている。

眠ろうと目を閉じると浮かんでくる先生の顔。
お酒を飲んで少し顔が赤くなり、いつもより少し興奮気味に話す姿。
風呂上がりにグラスを2つ持って寝室へ戻っていく奥様。
ふわっと漂う甘い香り…。

胸が苦しくて居ても立っても居られない、
心が波立って眠れず何度も寝返りをうつ。
雨の音を聞きながらあかりの夜は更けていった。









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?