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KISS Side-Bの前に

打合せが終わってデスクに戻って携帯を見るとメールが1件届いていた。

「今夜会える?」

画面を閉じ携帯を胸ポケットに仕舞うと思わずため息が出る。
あの人からの連絡はいつも突然だ。
こちらの都合はお構いなし。
もう一度胸ポケットから携帯を取り出し「仕事の後、少しだけなら…」少し考えてそう返信した。

あの人と初めて会ったのは1年半前、大学の先輩と飲んでる時だった。
仕事の関係で再会した先輩。
その頃、仕事が上手くいかなくて悩んでいた僕は酒を飲みながら先輩に愚痴を聞いてもらったり、アドバイスしてもらったりしていた。

そんなある日、いつものように先輩と飲んでいると先輩の電話が鳴り、一言二言何か話したと思うと「ごめん!今から彼女がこっちに来たいって言ってるんだけど…いいかな?」、そうやって店にやって来たのがその人との出会いだった。
先輩がフリーのデザイナーとして仕事で知り合ったその人は、長い髪と白い肌、大きな目が印象的で、その出会いの日をきっかけに僕と先輩とその人の3人で時々会うようになっていった。
先輩とその人の食事の席に呼ばれたり、仕事が長引いた先輩から頼まれて先輩が来るまでの間一緒に飲んで時間を潰したり、手料理をご馳走してくれるからと先輩に誘われてその人の家で一緒に鍋を囲んだりした事もあった。

そんな先輩カップルとの関係が1年ほど続いた頃、何となく先輩とその人の間に漂う空気に危うさを感じるようになった。
その頃先輩は大きなプロジェクトの責任者を初めて任されて張り切っていた。
残業どころか徹夜で職場に泊まり込む事もあって、約束の時間に間に合わない先輩に頼まれて待ち合わせの店でその人と一緒に先輩を待つ事も増えていった。

最初は「大変だよね」「頑張ってるんだね」と先輩を気遣っていたその人も、仕事が長引いて約束をすっぽかされる回数が増え、会えない時間が長くなっていくにつれて徐々に無口になっていく。
そんな日々が3ヶ月ほど続いた頃、グラスに残ったワインを飲み干すとその人は「もう私達ダメかもしれない…」とポツリと言った。

「ごめんね、いつも付き合わせて…
でも、もう来なくていいから。
これからは約束の時間まで待って来なかったら帰ることにするから。私は大丈夫だから。」

きっぱりとした口調とは裏腹にワインで頬を染めた彼女の瞳は潤んでいて、立ち上がった彼女の体は折れてしまいそうに細くて足元がフラついている。

この3ヶ月、先輩と会えない時間を持て余すその人を見てきた僕はそのまま放っておく事ができず、「家まで送ります…」そう言って何度か訪れた事があるその人の家までタクシーで送る事にした。
フラつくその人を支えるようにして歩き、タクシーを捕まえ一緒に後部座席に乗り込み、目的地を運転手に告げると、その人はそのまま僕の肩にもたれて眠ってしまった。

そしてその人のマンションに着き、目を覚ましたその人を支えながらドアを開け、ベッドにそっと座らせると冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し手渡した。

ペットボトルの水をゴクゴクと飲み、「はぁ…」と息をつくその人を見て「あんな事言わずにもう少し考えてください。先輩と話し合った方がいいですよ。」そう言って「それじゃ…」と僕が帰ろうとすると…

その人は「待って!帰らないで、1人にしないで…」と僕の背中に抱きついてきた。
「今日だけでいいから…お願い1人にしないで」
そう言う彼女の声は震え、背中に涙を感じる。
何か言おうとしても声が出ないし金縛りにあったように体が動かない。

どれくらい立ち尽くしていただろう?
彼女が泣き止む気配を感じ、やっと向き直るとその人は涙で濡れた瞳で僕を見上げている。

「分かりました。温かいものでも飲んだら少し落ち着くかも。コーヒーでも淹れましょうか?」
そう言って彼女の背中に手を回しベッドに座らせようとすると…
安心したのか急にその人は体の力が抜けバランスを崩し、慌てて支えようとした僕ともつれる様にベッドに倒れ込んだ。

一瞬の沈黙の後その人は僕に唇を重ねてくる。
僕の全身に電流が流れる。
「今だけ…今夜だけ…」
その人の声を聞いた瞬間、僕の中でギリギリ残っていた理性が吹っ飛んだ。
その後の事はあまり覚えていない。
気がつくと僕の隣でその人は眠っていた。

透き通るように白い肌、強く抱きしめると壊れてしまいそうな細い体。
僕はその人の背中を見つめながら、この3ヶ月間を思い返していた。

その人の笑顔、少し酔うと先輩の事を幸せそうに惚気る顔、窓の外に先輩に似た人を見つけて目で追ってしまう横顔…

その人とこうなってしまった事を僕は後悔してなかった。
前から何となくこうなりそうな気がしていた。
いや、そうなる事を望んでいた。

そうだ、僕は先輩を待つその人にいつの間にか惹かれていた。
でも気付かないフリをしていた。
一歩踏み出す勇気がなかった。
踏み出したら自分の気持ちが止められない事が分かっていた。
多分、その人は僕が気付かないフリをしていたその気持ちに気付いていた。
踏み出せない僕の背中を押したのはその人自身だった。

今夜この部屋に来る時からこうなりそうな気がしていた。
待ち合わせの店で不安に揺れる彼女の瞳を見た時から、自分の気持ちをグッと抑えていたつもりだった。
でも彼女の唇が触れた瞬間、押さえつけていた僕の心の中の蓋が弾け飛んだ。
激しく求め合い肌を重ねる時間…

でも今、僕の隣で眠る彼女の肌の温もりを感じていても僕の心はどこか冷めていた。

僕を見つめる彼女の濡れた瞳は、僕を見ているようで僕を見ていない。
その瞳は僕を通り越して、ここにはいない先輩を探していた。

不思議と僕には先輩へ申し訳ないという気持ちがなかった。
僕を見つめる彼女の瞳には僕は写ってなかったから。

終わりへ向けて始まってしまった僕とその人の関係、「今日だけ、今だけ…」とその人が言った関係は気が付けば3ヶ月続いていた。

その人は寂しい夜に1人でいられない人だった。
僕の中に多少の期待が無かったか?と言ったら嘘になる。
最初の頃は、連絡がくると「もしかしたら今日こそは僕を見てくれるかも…」そんな淡い期待を持ちながら待ち合わせの店へ向かった。
でも結局、酔った彼女は1人の部屋に帰る事が嫌なだけで、彼女が求めていたのは僕の肌の温もりだけだった。

何度かその人と肌を重ね「きっとこの人は変わらない…」その事が分かっていても、連絡があると僕は待ち合わせの場所へ向かう事が止められなかった。

苦しかった。
「僕だったら寂しい思いはさせない」
「今だけは先輩の事は忘れて、僕の事を見て欲しい」
喉元まで出掛かる言葉たち。
その人との未来のない関係に僕は疲れていた。
そして、その人と一緒にいる時の自分が嫌いだった。

僕だけのために笑って欲しい。
僕の隣にいて幸せを感じて欲しい。
僕の中でその気持ちが大きく膨らんでいく。

未練を吹っ切るように、「久しぶりにメシでもどう?」
僕はあいつにメールした。

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