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悪い男 〜月の光〜

【自堕落な文豪妄想ストーリー(1)】

松下洸平さん掲載の雑誌「CUT」2021年2月号の企画『悪い男〜自堕落な文豪〜』のビジュアルからイメージを膨らませて書いたお話です。

「それじゃ夕飯の支度をお願いね。」 

奥様は私に声をかけると書斎のドアを開けて「ちょっと出かけてきます」先生に声をかけた。

部屋の奥から「あぁ行ってらっしゃい、僕の事は気にしなくていいからゆっくりしてきたらいいよ」先生の声が聞こえる。

奥様は先生の背中を見つめながら小さくため息をつき「少し遅くなるかもしれません…その時は先に休んでいてください」そう声をかけて出かけて行った。

今日の夕飯は何にしよう。
そろそろ準備をしなければ…
米を研いで釜に火をつけようと振り返ると、台所の入口に先生が立っていた。

平静を装いながら「先生…お食事のご用意もう少しお待ちくださいね」そう言うと、
「良い匂いだね…今日は何だろう?楽しみだな。」先生はふわっと笑った。

先生は本当に美味しそうに食べる。
「美味いっ!」
子供のように目を見開き、満面の笑顔。

「いやぁ…本当に美味しいな。あかりちゃんをお嫁さんにもらう人は幸せだね」
先生は私に向かって笑いかける。

ご飯をよそっていた手が止まり、食卓が一瞬静かになる。
「先生、沢山召し上がってくださいね」
私は何とか笑顔を作り茶碗を差し出した。

少しでも長くこの時間が続きますように…
笑顔で箸を運ぶ先生を見ながら心の中で願う。

いつもは先生と奥様が囲む食卓。
食事の支度をして2人が食べ始めると、私は台所に戻りそこで1人慌ただしく食事を済ませる。
でも、奥様が出かけている時だけは特別。
先生と一緒に食卓を囲む。

「一人で食べるのは味気ないなぁ。せっかくだからあかりちゃんも一緒に食べようよ?」という先生の言葉をきっかけに、奥様が留守にする日は先生と一緒に食卓を囲むようになった。

食卓を囲みながら交わす他愛もない会話。
そして食後の寛いだ雰囲気。
それは私がいつも台所から見つめている食卓の光景。

先生と2人だけで過ごす時間。
私はいつからか奥様が留守にする日を心待ちにするようになった。

夕食の片付けと明日の朝食の準備をしながらも心が波立つ。
手は忙しく動かしているが、あかりの頭の中は男のことでいっぱいだった。

いつもは夕食の後、先生はお茶を飲みながら何だかんだと話をしてくれる。
今書いている作品のこと、最近あった面白い出来事。
そして、あかりの何でもない日常の話を優しく、時には小さく笑い声をあげて面白そうに聞いてくれる。
あかりは先生を独り占めできるその時間が大好きだった。

今日も食事が終わり、お茶の準備をしようとすると…
「それじゃ、僕は書斎に戻るね。後の事は気にしなくていいから…あかりちゃんも早く休むといいよ」
そう言うと先生は立ち上がった。

「先生?」
がっかりした気持ちを押し殺し、問いかけるような眼差しであかりが男を見つめると、

「久しぶりに書けそうな気がするんだ。書きたい事がここまで浮かんできてる。」
目をキラキラさせて男は自分の喉元に手をあてる。

「先生…それは良かったです。あまりご無理なさらないでくださいね」
あかりは微笑んでそう答えるのが精一杯だった。

朝食の支度も終わり、風呂を済ませて自分の部屋に戻ろうとすると…
中庭の向こうに書斎が見える。
書斎からは灯りが漏れており、男はまだ書き続けているようだった。

あかりはお茶を淹れ、書斎へ差し入れることにした。
「後の事は気にしなくていいから…」先程の男の声が蘇る。
それでも、眠る前に先生の顔が見たい。
何か言葉を交わしたい。
その強い気持ちがあかりを書斎に向かわせた。

書斎へ向かう長い廊下を歩いていると、男は縁側で柱にもたれて空を見上げていた。

「先生…こんな所にいらっしゃったんですか?冷えてきましたし、風邪をひいてしまいますよ」

と何か羽織るものを取りにいこうとすると、「大丈夫、少し夜の風にあたって頭を冷やしたいんだ。」そう言って引き返そうとする私を止めた。

「先生…お酒を召し上がってるんですか?」
月明かりに照らされた男の傍には見慣れない酒の瓶があり、手には大きなグラス🥃が握られている。
「うん、何だか今夜は飲みたい気分でね。ふわふわして良い気分だよ。」
空を見上げたまま先生は答える。

「あかりちゃんも少しそこに座らない?今夜は雲がないから月がはっきり見えるよ」

あかりは男から少し離れた場所に座り空を見上げた。
「うわぁ…綺麗。」
そこには大きい月が青白く光っていた。

「もう少しで満月かな?大きくてすぐ近くに見える」
先生は呟きグラスを傾ける。

青白い光りに照らされた先生の横顔は微笑んでいるのに何だか寂しそうで…
「先生…先生は奥様がこんなに頻繁にお留守にされて寂しくはないのですか?」
前から気になっていた事を思わず聞いてしまっていた。

一瞬驚いたように目を見開きあかりを見た男は、空を見上げながら短くため息をついた。

「寂しい…どうだろう?
あいつは、ひかりは書いている僕と僕が書いたモノにしか興味がないんだ。
書けない僕の側にいるのは退屈なんだよ。」
空を見上げたまま私に背を向けて先生は言った。

いつも奥様の前で優しく微笑む先生しか知らない私は、思いもしなかった先生の言葉に驚き返す言葉が見つからない。
「先生…ごめんなさい。私出過ぎた事を…」
慌てる私に、「いや、僕の方こそ…少し酔ったかな?」先生は掠れた声で呟いた。

「でも、ひかりには感謝してるんだ。僕は華やかな場所は苦手だし…。
あいつが面倒な事を引き受けてくれるお陰で僕は書く事だけに集中できる。こうやってあかりちゃんと静かな時間を過ごす事ができるんだ」
先生はいつもと変わらない笑顔で私に微笑んだ。

そしてグラスに口をつけ一口酒を飲むと「あかりちゃんも飲んでみる?」雰囲気を変えるようにグラスを差し出した。
先生が口をつけたグラス…お酒…
躊躇っていると「あかりちゃんにはまだ早いかな?」ふふっと笑って男は差し出したグラスを引っ込めようとした。

「飲みます!飲めます!先生、子供扱いしないでください!」
ムキになって先生の手からグラスを奪い一気に飲み干す。
「あっ!あーっ…全部飲んでしまった」
先生は慌てて私の手からグラスを奪い取る。
「大丈夫?あかりちゃん…平気?」
先生は驚き少し呆れたように、でも心配して私の顔を覗き込む。

初めて飲むお酒。
カーッと熱いものが喉の奥を流れていく。
咳き込みながら初めての感覚に何も言えずにいると、「本当はこのお酒は少しずつゆっくり飲むものなんだよ」先生は優しくポンポンと頭を撫でる。
お酒で熱くなる体、ふわふわした感覚。
すぐ側に先生がいる…。
酒に酔ってボンヤリした頭で顔を上げると青い月が先生を照らしている。

「先生…月が綺麗ですね」ポツリと呟く。

「先生…月が綺麗ですね」もう一度想いを込めて呟く。
月が綺麗と言っているのに私は月を見ていない。
先生を見つめている。

先生は気がついているだろうか?
「月が綺麗」と言った私の言葉。
そこに込められた本当の意味。

先生の表情を見れば分かるかもしれない。
でも月を背にして座っている先生の顔は影になって私からは見えない。
沈黙の時間がどれくらい続いただろう…

「あかりちゃん…月が綺麗ですね」
先生はそう言った。

先生の表情は分からないけど、私を見つめている事は分かる。
手を伸ばせばそこに先生がいる。
一歩踏み出せば…
手を伸ばせば何かが始まるかもしれない。
酔ったままボンヤリした頭で考える。

やっぱりできない。

私は想いを断ち切るように立ち上がり、少しはしゃいだような明るい声で言う。
「先生、月が綺麗ですね。
こんなに近くに見えて手を伸ばせば届きそう」

立ち上がって月に向かって手を伸ばした私はバランスを崩して足元をふらつかせる。

足元がふらついた私を先生は慌てて抱き止めた。
抱き止めた先生の腕にギュッと力が入ったような気がしたのは私が酔っているからだろうか?

「近くに見えるから手が届きそうな気がするんです…でも本当は遠い。手を伸ばしても届かない」先生の腕の中で私は呟いた。

抱き止めた私を先生はそっと座らせて
「もう少し手を伸ばせば届くかもしれないのに…怖い?」
私の目を覗き込み囁いた。

先生…それは…?
問いかけるような私の目を見て、先生は目を逸らした。

そして青い月の光に照らされた庭に目をやると、「もうすぐ桜が咲きそうだね…。蕾が膨らんでる。でも咲いてしまったら散ってしまう。あっという間に終わってしまうんだ。」少し寂しそうに呟いた。

もうすぐ桜の花が咲く。
そして、私の行き場のないこの想いも月と一緒に満ちていく。
月を見る私の横顔を先生はじっと見つめていた。

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