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アクセルペダルを踏み込んで,しがらみ全てを振り切って,嫌なことから逃げ出したかった

昔走り屋をやっていた母親が,僕が小さい頃からよく車に乗せて出かけてくれていた.その影響なのかは知らないけれど,僕は車に乗るのがいつからか好きになっていた.


高校の卒業が決まった頃,自動車学校に通うようになった.大学が遠いので,休日しか教習を受けることができなかった.通える日数が少ない上,学科をここまで受けないと技能を受けられない,この回はこの日のこの時間にしか開講されていない,予約が埋まっていたら受けることができないなどの縛りがある.試験に落ちたりしたわけでは無いが,結局普通免許を取るのに夏休みまでかかった.

免許を取るとすぐ,運転するようになった.はじめは近所を運転し,次第に六甲山を走るようになった.しかし,それも長くは続かなかった.突如現れた猛スピードで走るトラックに,交差点でぶつかられそうになったからだ.別にこちらが信号無視をしたわけでもないし,一時停止してからの交差点進入時なのでスピードも出ていなかった.車を運転していたらきっと当たり前に遭遇するような場面なのだと思う.けれど僕はこの一件がトラウマとなり,運転ができなくなってしまった.


それからの三年間は,全く運転をしなかった.しかし,全く車に乗らなかったわけではなかった.文字通り死ぬかと思う体験はしたけれど,それでも車に乗るのは好きだったので,たまに大学の行き帰りに友達に送ってもらったりしていた.

自分で車を運転しないまま,大学を卒業した.もうこれから先,死ぬまで自分が運転することはないのだろうと思っていた.


大学を卒業してから半年間も,運転することはなかった.デートでも,運転ができない僕の代わりに,彼女や彼女のお母さんが運転をしてくださっていた.車を運転するのが好きな彼女からはよく,「玲護も運転しーや」と言われていた.その度「そのうちするわ〜」と返すやりとりがテンプレートになっていた.自分の運転のせいで自分以外の人が死んでしまうのが怖くて,人を乗せて運転することなどできなかった.


夏になり,講義と研究会が終わって,少しひと段落がついた.色々あって精神的にやられていたところに,教授からかけられた心無い言葉がきっかけで,僕は研究室に行けなくなった.

やらなければならないことはたくさんあったけど,何もやる気が起きなくなった.身体が動かず,ベッドの上で何もせず過ごす日が増えた.メンタルが落ちきって,自殺しそうになってしまう日もあった.


そんな日が続く中,ふと,以前彼女に言われた言葉を思い出した.
「車運転する男の子好きやわ」


どうせ死ぬのだったら,一度乗ってみてもいいかもしれないなと思った.最期ぐらい,彼女が好きでいてくれるような自分でいたかった.

伸びた髭を剃り,眉毛ともみあげとうなじを整え,シャワーを浴び,着替えて髪を整えた.イヤカフとネックレスとリングとブレスレットも忘れず着けた.彼女とおそろいのネックレスとリングが,僕に勇気をくれた気がした.

久しぶりに運転席に座った.たった一時間程度の運転だったけど,とても疲れた.


運転の練習をしたことを彼女に伝えた.「かっこいい」と言ってもらえた.言ってもらえただけで,嬉しかった.「男の人が運転してるの好き」と言ってもらえた.それだけで疲れが吹き飛んだ.僕は単純な人間だった.三年もの間車の運転から逃げ続けていたのに,他の誰に何を言われてもハンドルを握ることはなかったのに,彼女がきっかけで,また運転席に座るようになった.

彼女をいつか助手席に乗せて運転したいから,頑張ろうと思っていたはずだった.彼女が褒めてくれるから,頑張れていたと思っていた.単純に走るのが楽しくなっていた.車を運転する楽しさを思い出した.
──だけならよかった.


狂ったように毎日走り続けた.なぜか午前4時を過ぎないと寝れなくて,それでも朝には目が覚めて,あまり寝れない日が続いているけれど,それでも毎日運転をした.突然淡路島の外周を一周したり,六甲山を走ったり.目的は無いけれど,ただひたすら,何かから逃げるように,朝から晩まで毎日あてもなく走り続けた.


ハンドルを握り,アクセルペダルを踏んでいる間だけ,全てを忘れることができた.嫌なことも,自分に振りかかっている問題も全て.やるべきことも全て投げ出して,逃げるかのように毎日夜まで走り続けた.車を走らせている時だけが,しがらみから解放されて,自由でいられる気がした.