私は昭和の終わり頃に、営業事務として商社で働いていました。そのころの仕事術で昭和と令和との違いを書いています。

平成5年頃、私は、パソコンのインストラクターをしていました。私はどうやってパソコンのインストラクターになったのか。当時のパソコン事情なども交えて書いていこうと思います。令和の現在とはかなり異なると思います。

パソコンが自宅にあったら採用です

私がパソコンインストラクターとして採用された会社は、自前のパソコン教室と企業の講習などを請け負う会社でした。当時女性の転職の代名詞でもあった「とらばーゆ」という雑誌の求人情報を見て応募しました。履歴書に使えるパソコンソフトをいくつか書いて応募すると、電話に返信がありました。面接で自宅にパソコンがあること伝えると、即採用でした。インストラクター経験はなかったので、インストラクターのアシスタントを数回こなしてからメインインストラクターになりました。

パソコンを持っている=パソコンソフトが使えるという認識でした。

私が採用されたパソコン教室の給与体系は時給で、1時間1500円だった思います。アシスタントの時給は1000円でした。講習の準備や、ソフトウェアの勉強には、時給が発生しないので、割の良い仕事ではありませんでした。

パソコンとは?

その頃のパソコン講習は「パソコンとは?」というところから始めていました。

「パソコンとは?」の講習で何を話していたというと・・・・・
「パソコンは計算機のようなものです。これだけでは何もできません。」フロッピーディスクを見せながら「これはソフトウェアというものです。このフロッピーディスクの情報をパソコンで読み込んでワープロや表計算のソフトウェアが利用できるのです。」

このような芝居がかった口上を一時間ほどしゃべっていました。

表計算、ワープロ

Windows95が発売される前に、もっとも多く教えたソフトウェアは「Lotus1-2-3 MS-DOS版」でした。

「Lotus1-2-3」、「Lotus1-2-3」、「一太郎」、「Lotus1-2-3」「Lotus1-2-3」、「MS-DOS」、「花子」、「Lotus1-2-3」、「BASIC]というようなスケジュールでした。

「Windows95」が発売後1年間は、「Windows 入門」と「Excel」、「Word」に変わりました。そして「Windows 入門」が「インターネット入門」に変わってくるのでした。

カルチャーセンターで講習

○○文化センターという場所で、教えていたこともあります。文化センターのパンフレットには、大学教授から、お稽古事の大御所先生がお名前が掲載されていました。その方たちと並んで、自分の名前が掲載されているの見てすこし感動しました。なんか偉くなった気分でした。

私は、カルチャーセンターで講師をした後は、インストラクターの仕事はやり切ったような気分になり、プログラム開発に挑戦していくのでした。


サポートしていただけたら、とっても嬉しいです。昭和の文化をとことん、語ってみたいと思います。昭和のOL仕事についてお知りになりたいことがあれば、コメント下さい。noteでお答えいたします。