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私は昭和の終わり頃に、営業事務として商社で働いていました。そのころの仕事術で昭和と令和との違いを書いています。ときどきは、2000年以降のことも書いています。

「ママがサンタにキッスした」、「赤鼻のトナカイ」などのクリスマスソングを日本語に訳した方は「漣健児」さんといいます。この「漣健児」さんは洋楽雑誌ミュージックライフの編集長もされていました。私は、この「漣健児」さんがお亡くなりなった2005年には、「ミュージックライフ」の出版元「シンコーミュージックエンタテインメント」がオーナーのビル「シンコーミュージックプラザビル」に入居している会社で働いていました。

シンコーミュージックプラザビルとは

文字通りのシンコーミュージックエンタテインメント社がオーナーの雑居ビルです。一階は、ドラッグストアが入っていましたし、私が働いていた会社以外にも様々な会社が入居していました。雑誌の出版部門は、「シンコーミュージックアネックス」というビルに移っていました。「シンコーミュージックプラザビル」には、ビルの管理部門が入っていたと記憶しています。

漣健児さんの訃報を聞く

2005年6月終わりごろ、何となく聴いていたラジオに「東郷かおる子」さんが出演されていて、「漣健児」さんの訳詞について話していました。「東郷かおる子」さんは、私が中学時代に大好きだった洋楽雑誌「ミュージックライフ」の編集長だった方です。私はラジオを一言も聞き逃すまいと、神経を集中して聞いていました。

「東郷かおる子」さんは、「漣健児」さんが訳した外国のポップスについて話していました。クリスマスソングや、昭和のスターたちが歌ったヒット曲も「漣健児」さんの訳詞でした。そして、お亡くなりになったこと、お別れ会が予定されていることも話されました。

そして「漣健児」さんがシンコーミュージックエンタテインメント社の会長であることも、このラジオで初めてしりました。

私は、「会社の大家さんがお亡くなりになったこと同じことだ」と思い、出勤して、上司に「お別れ会」の花を送ることを提案しました。上司からは、もちろん「OK」がだされ、すぐに花を手配しました。

12月になると、思い出す

毎年、12月に入ると、街のあちこちで、クリスマスソングが流れてきます。「ママがサンタにキッスした」と「赤鼻のトナカイ」も、定番のクリスマスソングなので、英語バージョン、日本語バージョン、インストロメンタルと様々な場所で耳にします。

私は、「ママがサンタにキッスした」と「赤鼻のトナカイ」を聴くたびに「漣健児」さんの偉業に感謝しています。そして、「お別れ会」に会社の経費で送った花でしたが、少しは感謝を形にすることができたと思っています。

サポートしていただけたら、とっても嬉しいです。昭和の文化をとことん、語ってみたいと思います。昭和のOL仕事についてお知りになりたいことがあれば、コメント下さい。noteでお答えいたします。