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民俗学最高! の原点を回顧する

この記事は、比文のひとびと Advent Calendar 2023の3日目の記事です。

ご挨拶


こんにちは。比文三年のyamatoと申します。
フィールド文化領域文化人類学コースで、民俗学を中心に学んでいます。
民俗学への関心は大学入学以前から現在まで一度も揺らいだことがありません。卒論で扱う対象もフィールドも入学前に決めて、そのまま来ました。迷子さんの多い比文では珍しい部類かもしれません。
今回は、自分が民俗学大好きになった流れと、卒論でやりたいことを書き起こそうと思います。比文アドカレの記事ではありますが、半分以上は自分のための文章です。

オカルトマニア爆誕

 小さいころから本が好きで図書館に通っていました。そもそも活字が好きだったのでこだわらずなんでも読みましたが、特に熱を入れて読んでいたのは怪談でした。『学校の怪談』(常光徹 ほか)、『赤い本』『緑の本』シリーズ(緑川聖司)、『怪談レストラン』(松谷みよ子 ほか)など。『怪談レストラン』はアニメ化もしましたよね。リプレイハンバーグの話とか結構有名なんじゃないかな。都市伝説やUMAの話も大好きでした。
 中学生になってスマホを持つようになると、ネット上の怪談を読み漁りました。洒落怖(2chオカルト板のスレッド「死ぬ程洒落にならないい話を集めてみない?」の略称)、意味怖(意味が分かると怖い話)を片っ端から読みました。ゆっくりに朗読してもらう動画をお供に勉強することもありました(今でもやります)。洒落怖だと「裏S区」と「巨頭オ」が気味悪くて好きです。創作怪談サイトなので正直クオリティは玉石混交ですが、名作もたくさんあって面白いですよ。お暇な方はぜひ。
 なんというのかな、地域に根ざした、なさそうだけどありそうな、独特の風習が織り込まれた話が特に好きです。一時期日本や世界の奇習因習をまとめた記事を読み漁っていましたが、事実かどうかはともかくとして、結構闇深くて読み物として面白いんですよ。纏足とかね。
 少し本筋とは逸れますが、よくある「怖い話」っていくつかパターンがあります。そのうちのひとつが、主人公が非日常的な場所へ行く(起)、そこで怖い目に遭って(承)、お祓いしてもらったりしてもらわなかったり(転)、そして怖い目の詳細が明かされ、日常に帰る、あるいは帰ろうとする(結)、というような流れの話です。
 洒落怖の「くねくね」は有名どころでしょうか。ホラーゲームに取り入れられたりしてますね。この話もある程度このパターンに当てはまると思います。
 祖父母の家に帰省した兄弟が、田んぼの向こうでくねくね動く白い影を見つける。兄が双眼鏡で影を見た瞬間、兄は狂ってしまう。弟は祖父に阻止されその場は影を見ずに済んだ。発狂した兄を祖父母の家に残して帰ることになった弟は、兄との思い出を回想しながら一面に広がる田んぼを双眼鏡で見る。そのとき、見てはいけない物を間近で見てしまった、という流れで話が終わります。
 こんなふうに、怖い話のフィールドっておじいちゃんたちのいる田舎とか、修学旅行先とか、わりと非日常な場所のものが結構多いんですよ。(家とか学校がフィールドになってる話も同じくらいたくさんありますが)そこで祠壊しちゃってェとか、住んでる神様がどうこうとかで話が進んでいくんです。
 そうして怪談を読み漁るうちに、おそらく歪んでいるであろう田舎への憧れ(???)が育まれてしまいました。同じ頃にTwitterでフォークロアbotのツイートも全部読みましたが、面白いけど、やっぱり日本の神とか信仰とかが絡んだ話の方がうきうきするなあ、と思うようになりました。

夏目友人帳にハマる

 夏目友人帳いいですよね。人と、人でないものが、夏目貴志を通じて一瞬交差するのがいい。妖は人が見えるけど、人の多くは妖が見えなくて、決して姿をみとめることはできないまま死んでいくことになるのがいいですね。姿を見ることはできないから、人にとってはいるかいないか分からなくても、「いるかもしれない」「いてほしい」「いないでほしい」そういう、不確実だけど確実に妖を思う心というか……そういうのが生まれる関係性……すごく好きです…………。1番好きなのは露神様の話ですね。泣きました。アニメだと1期2話だったと思います。見てください。
 私は夏目友人帳で、人でないものが存在しているかいないかは分からないけど、でも「いてほしい」と思うようになりました。カミサマとかそういう存在にも通じる私の価値観です。神や仏はいるかもしれないしいないかもしれないが、いた方が救われる気がして嬉しい。逆に、UMAも幽霊も妖怪は、いるかもしれないしいないかもしれないが、いてほしくない。私怖がりだからあんま会いたくないんですよね。

民俗学 私の卒論

 では、なぜ「いてほしい」と思うのでしょう。ご利益がある?祟られる?はたまた、そういう存在がいた方が、誰かにとって都合がいいとか?きっといろいろな理由があります。それは、必ずしも信仰心などに基づいたものではなくて、もっとゲスくて、利権の絡んだ、ぐちゃぐちゃした欲望に基づいているかもしれませんね。
 もう少し考えてみましょう。ある地域で祀られている神様を、その地域の人々はどのように「いることにしている」のでしょう?祠や神社を作って住んでいただく?お祭りをして定期的に呼んでくる?祠や神社は誰が作ったのか?誰が今まで管理してきて、これから管理するんでしょうか?お祭りは誰が中心に、何の目的で始めたのでしょう?今まで続いているのなら、その目的や中心人物に変化はあったのでしょうか?そしてそれはなぜでしょうか?
 まだ民俗学は学び始めたばかりですが、たぶん、こういうことを知りたいな、と思ったときに、民俗学は手や足や、ペンや言葉になってくれる学問のような気がします。もちろんもっといろいろなものを対象にできる学問だけど、大きな分野の一つとしては、「人は人でないものをどうやって存在していることにしているのか」を具体的な事例から考えるというものがあるように思います。
 私の卒論では、福岡県北九州市の夏祭り「戸畑祇園大山笠行事」を題材にします。家族が夏祭り大好きで、毎年祇園祭やら花火大会やら行ってましたが、そのなかで一番規模がデカいのがこのお祭りです。福岡県の祇園祭では博多祇園と一緒にユネスコ無形文化遺産に登録されていて、結構レベルの高いお祭りです。
 ここまでいろいろ読んできた蓄積で、神輿が神の乗り物であると知った私は祭りを見ながらふと、「この山笠には誰が乗っているんだろう」と思いました。以来、このお祭りを追いかけまわしはじめて今に至ります。
 戸畑祇園大山笠では4基の山笠(神輿のようなものです)と、中学生男子が担ぐ4基の小若山笠が練り歩き、競演会をします。昼間は山笠本来の姿である「幟山笠」ですが、夜には幟をおろして提灯を載せかえて、提灯合計309個、高さ約10m、重さ約2.5tの提灯大山笠になるのを売りにしています。

幟大山笠
提灯大山笠(7月に撮影してきました)
提灯大山笠(北九州市より)


 歴史とか変化とか技術とか保護とか広報とか、気になることは無限にあるのですが、今回は卒論ですから、ある程度範囲を絞って、「小若山笠」に注目することにしました。小若山笠というのは大人の山笠よりも少し小さいんですが、形は同じです。中学生も、肩を傷だらけにして担ぎます。
 この山笠はなぜ存在し、今まで担がれてきたのでしょう。中学生の男の子たちは、家族は、同級生は、女の子は、どんな思いを持っているのでしょう。
 7月にフィールドワークをして中学生が担ぐ小若山笠を見たとき、直感的に、「これは単なる技術継承のためだけのものではなさそうだ」と思いました。根拠はありません。ただ、強烈に印象に残ったこと、背後にある物語が知りたいと思っただけです。
 まだ本格的な調査は始めていませんが、練習風景を見学させていただいて、中学生男子たちを中心に、指導にあたる担ぎ手の大人とどのような関わりかたをしているのか、そもそも小若山笠を担ぐことを彼らはどう思っているのか、もともとの行事の意味との距離はどれくらいあるのかなどの観点から聞き取り・観察調査を行うつもりです。
 もともとは疫病平癒を神に感謝するものだったこの行事を、中学生はどのように解釈しているのでしょう。山笠を担ぐことで神様を「いることにしている」彼らの中に、神様はいるかもしれないし、いないかもしれません。この調査を通して私は、祭りと、祭りを取り巻く人とのかかわりを知る手掛かりが得られればいいなと思っています。

おわりに

 時間がぎりぎりになってしまってすみません。それと、思いついたままに書き散らしたので、あんまりきれいな流れにはなりませんでした。でも楽しかったのでよかったです。
 読みづらい文章だったと思いますが、お読みいただいてありがとうございました。民俗学はいいぞ。きみも神輿を追いかけまわそう。





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