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『環境型セクハラと献血PRぱいぱい消費問題についてグイグイ首を突っ込んでみた結果…』

 Twitterのトレンドにて環境型セクハラという文字とともに女性と思われるキャラクターの、極端に胸の強調されたアニメ画を目にした。厳密には目にしたあとスルーしようと目を逸らしたわけだが、逸らした先の方向で<環境型セクハラの象徴>を前に争う人々の姿が飛び込んできて、四面楚歌という事態に陥ったのであった。嘘だけど。

 四面楚歌になった私はなんとか自分の身を守るため、武器を片手に恐る恐る辺りを見回してみたのだが、どちらに向けて武器を振るうべきなのかがよくわからなくなってしまった。敵がわからないと不安になる。味方がわからないと疑心暗鬼になる。ならばなんとかして自己を保つしかない。

 そんなわけで自分の頭を整理するためにこの文章を書くにいたった。自分の頭を整理するためにはこのような方法を用いるしかないのだ。

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 ことの発端から現時点までの梗概を時系列に箇条書きでまとめてみると-
①日本赤十字社が献血PRの一環として、あるアニメとコラボレーションをする
②当該アニメのキャラクター(女性)の特徴として-
1)胸が大きく
2)それを突き出すような構図をとっており
3)「センパイ」と呼ばれる人物に対し、献血の経験がないことを揶揄するセリフを発する
③これに対しある弁護士女性のアカウントが「環境型セクハラ」という言葉を用い、日本赤十字社に対し意見のメールを送った旨のツイートをする(現在は削除された模様)
④それを受けた一部の女性(と思われるアカウント)から、これに賛同する意見が拡散されていく
⑤これに対し、このアニメ作品のファンおよびアニメファン(と思われる人々)をはじめ、④の思想信条に反感を持つ人々、③および④の意見と献血の必要性を秤にかけ、必要性側を重視する人々から反論の声が挙がる
⑥読解力に難がある人たちと説明力に難がある人たちの、いつもの泥の掛け合いが継続中

 こういう諍いからはできるだけリングを離れた方が危険は少ないし、ヤジを飛ばすつもりもないんだけれども、本音を言えば発端となった「環境型セクハラ」という語感が非常に気に入ったので首を突っ込んでみたいと思った。思ってしまったのだ。

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 当初の感想としては「ちんちくりんなアニメキャラの絵一枚でそんな大層な」だったのですが、以前に『82年生まれ、キム・ジヨン』の感想文にも書いた<男性の無自覚の暴力>という部分にも係るテーマだと思い、できるだけ公平に俯瞰的に見つめてみた。

 まず④の人々の主張は概ね
「作品そのものを無条件には否定しないが、元々男性向けに創作されたキャラクター(女性性(≒胸)が過度にディフォルメ化されている)であり、公共のものである献血に用いるのは不適切である。また、促進という目的であれ、そうした過度な女性性を有したキャラクターをエサのようにして献血を促すのは環境型セクシュアル・ハラスメントである」というもの。

 それに対して⑤の人々の主張は概ね
「そもそも当該キャラクターは絵であり実在の女性ではなく、形式上女性という形をとっているにすぎない。胸はキャラクターの性別的特徴としてアニメ的にディフォルメ化された表現にすぎない。つまり、女性に対する冒涜ではないし、セクシュアル・ハラスメントには該当しない。個人的な快・不快を基準に創作物を排除すると表現の幅が狭まってしまう。自身が過剰に女性の胸を性的なものとして捉えているのではないか」というもの。

 言うまでもなくどちらの言い分も理屈は立っているとは思うけれど、そもそもが「チリトマトヌードルがいかに美味いのか」と「カップラーメンがラーメン業界に与える深刻な影響」について双方の意見を主張しているようなものなので、永久に意見が交わることはないと思う。それとも「カップラーメンさえあればラーメン屋なんてどうなってもいい」と「カップラーメンという、我々の存在意義を損なう目障りなものを排除する正当性」について議論しているのかな?

◯なぜヒステリックグラマーのデザインはイヤらしくないのか

 今回の一連の流れを追った際、ある既視感を覚えた。その源流を探ろうと記憶の糸を手繰り寄せたところ、CD売上全盛期の90年代に勃発した「ロックかロックでないか」「本物か商業主義か」という問題を目にした時に感じた感情の揺らぎであることに思いいたった。
 
 この構図に当てはめてみると、根本にある問題はすなわち「対象(女性/音楽)を消費しているか、いないか」ということになる。

 もちろん音楽は文化で女性は人格を持った人間なので、そこに何らかの問題点があるのならば深刻度は同等ではない。それでもあの時、自分の中に感じた「どっちつかずな居た堪れなさ」が、解決しないまま今もなお燻り続けているのだ。

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 ヒステリックグラマーというファッションブランドがある。主に白抜きのカラーで、欧米系女性のセクシーな画がプリントされているデザインと言えばなんとなくイメージできるかと思う。デザインの傾向はロック系であり、デザインパターンによってはプリントされている女性の露出や仕草がわりと過激で、「攻めて」いる。白抜きとはいえフルヌードに近いと言っても否定はできないだろう。特に男性向けブランド、女性向けブランドと限定されているわけでもない。

 それでもこのブランドのデザインに(性的興奮をかき立てるという意味での)イヤらしさを感じたことはない。思いつきもしなかったと言っても嘘にはならないと思う。センシティブな男子中学生がヒステリックグラマーのTシャツを見つめながら自慰行為をしている姿は、ちょっと想像できない。
 
 これは好みや主観的なイメージに過ぎないのだろうか。そういった面もあるかもしれない。

 とはいえ、少なくともGoogleで「ヒステリックグラマー エロ」と検索したところ、それなりにヒットはあったものの、内容としてそのほとんどは個人売買などの売り手が同ブランドの商品説明に用いるための記号的な意味合いであったし、「ヒステリックグラマー セクハラ 」にいたっては一件だけYahoo知恵袋に投稿されたネタ風の質問が目についた程度だった。パブリックイメージとして認識の大枠の部分は逸れていないと思う。

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 話を冒頭に戻すと、問題として挙がったポスターに登場する女性は着衣であり、かつ露出は極端に抑えられている。肌が出ているのは顔・両ヒジから先とわずかに二の腕・首・首から胸元にかけて見落とすくらいわずかに肌色が見えている程度である。シャツのボタンはきっちりと第一ボタンまで留められており、いわゆる胸の谷間といった部分すら描かれてはいない。つまり直接的な意味でのエロティックを表現しているわけではないように思われる。とするとポイントとなってくる性的な部分はその胸の大きさにあるのだろうか。

 反面、先にも書いたようにヒステリックグラマーの女性は、デザインにもよるがかなり露出度が高く、ポージングも挑発的であるものが多い。それでもこのデザインにはどうしても性的なイメージがわかない。セクシーだとは思うが、エロいとは感じない。

 両者の間にあるこの違いはいったい何なのだろうか。単にデザインとしてのグッドテイスト/バッドテイストの問題なのだろうか。

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 再度、商業主義音楽の話に戻る。
 商業主義音楽を表す言葉の一つとして「売れ線」という言葉がある。言葉の通り「売る」ことを目的とした音楽で、言い方を変えれば「不特定多数の大衆に受ける要素が極めて高い音楽」ということになる。

 多分に偏見も含まれているが、構成要素としては概ね以下のようなものではないだろうか。
1)売れる(売れた実績のある)コード進行かつカラオケで歌いやすいキーであり
2)時代にマッチし(あるいは海外で先駆的に売れている)<凝り過ぎない>アレンジを施したサウンドをベースにし
3) ポジティブで当たり障りなく、大衆がもっとも興味を抱くテーマの歌詞を 
4) ルックスがよく歌唱力の最低ラインをクリアしたフロントマンが歌い上げる
5)加えて、タイアップやプロモーションなどの付加価値を与える

 つまり多種多様なジャンルの音楽や旬のルックスの中から「表層の旨味の部分のみを、流行とターゲットに照準を合わせ合理的に抽出した音楽」という事だ。この抽出した「表層の旨味の部分」を配合し、ちょっとしたセンス(音楽的才能、ビジネスセンス)を加えると、量産可能な売れ線を生産することができる。
 
 この旨味を求める者(ターゲット)は誰か-。いわずもがな聴き手である消費者ということになる。

◯インスタントな価値基準のもたらすもの

 献血PRポスターと、類似した構図を持ちながら性的なイメージを想起させないヒステリックグラマー、それぞれと消費者の関係を分類してみる。

☆ヒステリックグラマー
・訴求→顧客の購買欲
・購買欲を満たすことで購入者が得たいもの、得られるものは何か→同ブランドを着用している状況、同ブランドを所有している満足感、その他

 つまり購入者はヒステリックグラマーというブランドもしくはそのブランドのデザインしたTシャツ(ブランドイメージ)が欲しいのであって、デザインされている女性のセクシーなイメージが欲しいわけではない。かつデザインされているセクシーな女性そのものを表明したいわけではなく、ブランドを着用している私という状況を表明したいのである。

 これはある種の偏見を含んだ想像でしかないが、もしもデザインされている女性がセクシーさを省いた着衣のポージングや一般的に見て美しい容姿とは言えないイメージであったとしても、それがヒステリックグラマー的デザインで、そこにブランドイメージとしての価値を見出せるのならば購入者はそれを求めるであろう。

 対して献血PRポスターのキャラクター
☆献血PRキャラクター
・訴求→ファンの欲求(献血の対価として)
・欲求を満たすことでファンが得たいもの、得られるものは何か→作品ファンとしての満足感、女性性を備えた偶像としてのキャラクター(代替物としての女性)、その他

 欲求を満たしうるという目的においては両者ともに違いはないが、前者が求めるものはブランドというイメージであるのに対し、後者が求めるものは「女性」という実在するものであり、かつそれを投影した代替物としてのキャラクターということになる。
 
 もちろん代替物として実在するセックスを用いることがすなわち悪だとは思わないし、そうした例は世の中にわりと溢れている。そこには男女の違いはない。ライトな例もあればヘヴィーな例もある。

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 もう一度商業主義音楽の話に当てはめて話す。これで最後だ。

 一口に女性とは言っても日本だけでも6500万人が存在するわけで、6500万通りの人格があり容姿がある。それでも献血PRポスターをはじめとするいわゆる萌え絵は、これまでに目に入ってきただけでも判で押したように大枠が類似している。それは顔が総じて可愛いとか年齢が若年層であるとか性格が従順であるとか普段はツンツンしているけど状況に応じてデレデレ甘えてくるとか胸が大きいとか胸が小さいことを気にしているとかセックスの経験がないとか過激なセックスに応じてくれるとか太っていないとか痩せすぎていないとかである。一見、多様に見えるがパターンとしては非常に型にはまっているように感じる。
 
 それではなぜ上記の10のようなパターンを用いるのだろうか。
 
 言うまでもなくビジネスである以上、それが売れ線だからである。つまり消費者(アニメファン)がそれを求めているからだ。

 先の商業主義音楽の例に沿うならばファンの求める「6500万通りある人格を持つ女性の表層の旨味の部分」を抽出し具現化した偶像ということになる。

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「オリジナルのジャズは古臭いし難しくてよくわからない。BGMで流れている分には構わないけれど、積極的に聴こうとは思わない。でもジャズ風のコードが鳴り、キャッチーな歌メロにうっすらとブルーノートが入っている程度ならなんかかっこいいし、気難しい理屈もないから理解はできる」

 これはコテコテのジャズから表層の旨味の部分を抽出した売れ線ソングの例である。この「表層の旨味」を女性性に置き換えると-

「本物の女性はおばさんになるし難しくてよくわからない。その辺にいる分には構わないけど、積極的に関わろうとは思わない。でも好みの性格で顔が可愛くておまけにおっぱいが大きい二次元ならば理想的だし本物の女性みたいに文句も言わないし好きになれる」

 ジャズはあくまでも音楽だし、たとえ旨味のみ抽出されたとしてもジャズは傷つかないだろう。ジャズには人格はないのだから(ジャズファンは鼻を鳴らすかもしれないが)。
 
 でもこれって、オリジナルの人格を持った人間に対する認識としては結構残酷だと思う。

 アニメファンのためにも念を押すけれど、それがすなわち悪いというわけではない。性的嗜好の自由はあるわけだし、趣味の自由を奪う権利は誰にもない。書かないけど、私にもそういった性的嗜好はある。
 
 今回の献血PRに関して言えば問題点は、人間に対するそうしたインスタントな価値基準が公共掲示レベルで市民権を得る危険性というところにあるのではないだろうか。

 それがあたりまえに市民権を得る(社会通念上ありふれた存在となる)ことは、人間に対するインスタントな認識が市民権を得るということである。そうしたインスタントな価値基準が進行すると、実在する人間の老化に伴う容姿の変化に対して劣化という表現を用いたり、若くして亡くなった女性に対してキチョマン(貴重なまんこが失われたという意味。もう一度書く。亡くなった人間に対して貴重なまんこが失われたという言葉を平然と吐く人間がいるのだ)という倫理観の欠片もないような言葉を平然と発する人間が現れる危険性を孕んでいるのだ。(※ちなみにこれはアニメファンが言ったわけではない)

◯説教タイム

 いくつか眉をひそめざるを得ない意見も目にした。
 
 抗議の意図で献血のボイコットを呼びかけるものであったり、今回の件で日赤を見限ったのでもう献血に行くことはないだろう、というようなものだ。
 
 前者の発言に関しては本意ではないにせよ絶対に煽動してはいけないことだと思うし、後者に関しては個人の自由ではあるけれど、SNS上に発信することの意味を考えれば自分の中で結論する種類の思いであって、決して公に表明する種類の意見ではないと思う。

 今回④側の人たちの意見を多数目にした。自分たちの思いをなんとか⑤の人たちに理解させようと根気強く説明をしていたり、それが伝わらずにもどかしさを感じているという言葉もあった。

 特定の個人を指しているわけではないが、④の主張をする人たちの中には少ないながらも男性アカウントもあったわけだけど、いずれも残念なことに「対⑤の人たちへのカウンター」に終始していたように思う。
 
 女性が男性に対して何らかの深刻な発信をした時に、男性側が感知できる温度というのはけっこう限られているものだと思う。それは感情の機微の部分であったりするわけだが、もしも④に賛同する共感力を持った男性がいて、問題を問題として多くの人にシェアすべきであると思うのであれば、理解が困難な人たちに向け同性として理解の及びやすい説明をする使命があるのではないだろうか。男児の性教育をするのは男性の役割であるように。
 
 必要なのは問答法ではなくて説明だと思うし、それを受けた⑤の人たちに求められるのは、それを理解する姿勢(言いなりになるという意味ではなく、相手の深刻な主訴を理解しようと努力すること)なのだと思う。
(おしまい)

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