絵に興味がなくなり、所蔵していた画集の多数を売った

美しいものに憧れて、十代後半の、自分で本が買えるようになってからずっと画集を集めてきた。
本物の絵が買えなくても、画集には画質の良い絵画の画像がたくさん載ってるから、画集を所持しているということは疑似的に絵画を所有しているようなものである。
家に帰れば、いつでも、本を開けば、好きな絵が見れる。
一方画集を集めていても、絵描きや画商になりたいと考えたことはなかった。
画集を楽しんで30年間、そのあいだに模写すらしたことがない。

つい最近、絵を生業にしようかと考え、二ヵ月間真剣に絵を描くことに向き合ったが、絵を描くことは苦痛だった。
絵を描いているあいだの何も考えていない時間が勿体ない。
何も考えていない時間に脳が腐りそう。
こんなことに自分の人生の時間を使っていてはムダだと思った。
絵を描くのは全然楽しくない。
幼稚園の頃から小学校、大人になっても絵を褒められることはよくあったが、書いていて楽しいわけでもない。
絵が上手くなりたいという感情が湧いてくることもなかった。
絵を描いてこなかったので技術もない。
絵の技術をつけるにはだいたい10年くらいかかるようだが、そんなことに人生の時間を使うのは嫌。
絵を職業にしている人は、まず大前提として絵を描くのがめちゃくちゃ好きなのだろう。
私が絵を褒められるのは、巧拙ではなく、センスがいいからだと思う。
センスの良さはファッションやモノ選び、音楽の選曲、物事の考え方にも反映されている。

自分は絵を描くのは好きではないとはっきり自覚してすぐに、自宅の画集をどんどんフリマサイトで売っていった。
他人の絵を見るのが好きじゃなくなった。
絵を目にすると、その絵を描いた本人の意識が頭に入ってくるような感覚になり、吐きそうになる。
文字や図表のように、人間の想念が入っていない図像しか見れない。
文様や工芸品や衣服などの意匠が表現の主体であるものはいまだ楽しんで鑑賞できる。

自分はもともと絵画鑑賞にそれほど向いていなかったのかもしれないとこの時思い当たった。
実家に画集や図録があったせいで、子どもの頃から美術的なものに親しんできた。
そのせいでもともと絵を見るのが好きなのだと錯覚していたのかもしれない。
これまでも絵画鑑賞で細かい書き込みまで目を配るような見方は好きじゃなかったかもしれない。チマチマ書き込まれている絵を読み込むのが苛立たしい。
どちらかというとデザイン的に、一目でパッと分かるものの方が明快で無駄がなく好ましく感じる。
中高生の頃、雑誌広告批評やイラストレーション、コマフォトなどで宣伝ビジュアルを見るのが好きだった。
大人になった今思うのは、表現の意図がストレートに伝わる整理整頓された画面がというものは視覚的に明快で爽快だからだろう。

絵画、という芸術表現となると、私の場合、絵柄で好き嫌いがハッキリ分かれる。
同じようなタイプの絵しか好きになれない。
繊細な絵柄の淡い色彩の絵が基本的に好きである。
原色や書きなぐったような絵はどうしても好きになれない。
どぎつい色や暴力的なタッチが間隔に迫ってきて気持ち悪くて吐きそうになる。
それが芸術表現の一つの方法であると頭で理解した20代半ばから10年経ってもやはり嫌いだ。
はじめから好き嫌いを排した見方ができる人の方が鑑賞者には向いているのかもしれない。
私は好き嫌いが変わらないので今後も成熟した鑑賞者にはなれないかもしれない。

そして今や絵を見ること自体嫌いになって、好きだった画家の絵すらどうでもよくなってしまった。
繊細で、淡い色合い。そんな絵を見ると、ああ、私が好きそうな絵だなあ、とは思う。
完全に感動がなくなった。
自分は何のために画集を喜んで買っていたんだろう。
いいと思う絵をもっていたかった。
鑑賞することよりも所有して満足することの方がプライオリティが高かったのかもしれない。

小学生の頃、自然の図鑑を見るのが好きで、寝る前に歯磨きしながら図鑑を読むのが好きだった。
でもなぜか図鑑より“アート”の方がお洒落で教養ありげな雰囲気をしている。
さらに子どもの頃から二十代半ばまでの長い間ヨーロッパの文化に憧れがあり、反対に日本的、アジア的な文化の良さが分からなかった。
欧米の絵画、美術に強く興味があったのは主にそれが理由である。
こうして図鑑より画集が知識摂取の優先順位にとって代わった。
さらに中高生になってからはファッション探求が私にとって重大事項になったので、芸術に加えてファッションがそこに参入した。
十代当時の過酷な環境下で、絵画の表現する世界観に浸るのが癒しと現実逃避であった。
自由のない環境で、それしか逃避的娯楽手段がなかった。
大人になり、不自由で過酷な環境から物質的に抜け出して、それが精神的に板につくまで10年以上かかった。

子どものころからずっと、美しいものに囲まれて、美しい服を着て生活することを、死ぬほど、切望していた。
長い年月のあいだに二十代、三十代とたくさん服を買ってきて、今、自分が宝物のように大切にしている美しい服があふれるほど自宅にある。
子どものころにはこんな境遇になれるとは夢にも思わなかった。
美しいものを求める心の中で、理想のワードローブを完成させることと美しい絵画への興味は連動していたかもしれない。
そして、服を集めきったのとほぼ同時期に、絵画の世界に夢を投影できなくなって絵に対する幻想も消え去った。

装飾美術と自然の図鑑は今でも見ていて楽しい、学びになるので本棚に残している。


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