知識と意識と善悪(メモ)

知識がある人に憧れと尊敬の念を抱いているのに
私は勉強しようという気概をなかなか持てない。

偉い人がこう言っていた→そういう側面もある→でもなんか違和感ある→私には完全にそう見えてはないかも→なぜ?となって、自分の意識の海に潜るからなのかもしれない。そうなるとなかなか帰ってこれないので、億劫だ。
そう考えている人がいた、という事実をそのまま知識庫に置いておくことができない。
考え始めると、固有名詞も、考えの全容も、どこかに飛んでいってしまい、自分の記憶に残ったかけらだけを脳に吸収してしまう。その頃には、形も残っていなくて、言語化できないくらい自分と一体化していて、元の知識がなんだったのかよく覚えていない。
本当に愚かだ。でも治せる気がしない。
小説やエッセイやノンフィクションなど、気持ちに寄ったものばかり読んで、心だけ受け取って、どんな話だったか忘れてしまう。
一度見た映画を覚えていないのはそういうことなんだと思う。悲しい。覚えていたいのに。


偉人の著書や作品を、知識としてインプットすることは苦手だけど、生身の人間にはとても興味がある。

博識な人が集まっても、それぞれが独特の個性を持っているのはなぜか?
どんな経験や気質がその人をその人たらしめているのか?
が気になって、すべての人に対して気になって、わかるはずのないその問いを延々と考え続けてしまうほどに、人間が複雑で、興味深く、考えるほどに愛おしくなっていくような感覚がある。

生きている人間には質問できる。
聞けなくてもその人の一生を見届けることができるかもしれない。

生前忌み嫌われていたゴッホの絵がなぜ素晴らしいのか、の答えを、今、目の前の人が持ちながら生きている可能性があるなと思う。
みんな、絵を描かない人も、心の中に絵のような何かを内包しているのではないか、と思う。
その絵を見せて欲しくて、全容を見ることはどうしたってできないけれど、片鱗を見せてくれている、と、いつも周りの人に思っている気がする。

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悪い人、良い人、というのが何を指すのかは個人によってかなり違いそう。
複数人で話す時の「あの人良い人だよね」が、あの人のどこを指しているのか、共通意識が成り立っているのか、もやっぱりよくわからない。
境界のわからないぼやっとした煙のような、共通意識的ななにかは、私の中にも浮かんではいて
でもあまりに曖昧で、その曖昧な認識のまま会話が進んでいくことも、どういうことなのかよくわかっていない。
その場の人と文脈によって、「良い人」は常に変化するように思う。

最近ずっと、
良い人、悪い人というものが存在するのか?を考えていて、今の自分は、犯罪者も含めて、「悪い人」も「良い人」も存在しないように思えている節がある。
かなり偏っている自覚があり、会話の中でのバランスに気を張っていないと危うい。気をつけたい。

個人的に好きな人、嫌いな人は居て、それってなぜなのか?とまた自分の海に潜って考えると、
昔ムロさんがどこかで発言していた
「僕は、人間は義侠心を持って生きるべきだと思っていて…」という言葉が、私の頭には、形を持ったままずっと残っていて、私の好き嫌いはそれに引っ張られているところがあるかもしれない。
人と会って、感化されて、変化している自分にも、変化していく他人にも、興味が止まらなくて、人と会うと、いつも面白くて、魅力的で、意味がわからない。

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