それでも、わたしは捨てる。
など、「いるもの」「やること」が語れることは多い。
一方、「いらないもの」「やらないこと」など、捨てるものについて語られる機会はそう多くない。と、わたしは思う。
実際、捨てるメリットもあるのだ。
例えば、ゴミを捨てると部屋も気持ちもスッキリするし、お風呂で一日の汚れを落とすと、爽快な気分になる。
このように、減らし、手放すと、生活が豊かになることは意外と多い。
今回は、そんな「捨てたら人生が豊かになったもの」を5つ選び、わたしの人生を振り返りながら綴ろと思う。
自己紹介はこちら↓
では早速、本題へ。
❚ ① 謝罪
わたしは、謝ることをやめた。
これだけ聴くと「謝らなきゃダメでしょ」と思われるかもしれない。
もちろん、謝って解決することなら、謝るのだ。
過去にサービス業で働いていたころは、クレーム対応で謝りまくっていた。床を見つめている時間のほうが長かったほどだ。
しかし、
ある日のできごとが、わたしの謝罪に対するスタンスをかえた。
ある日、
ミスをして上司に注意された際「バカなんで、すいません」と言った。
すると「自分のことをバカっていうのは"逃げ”だよ!!ペコペコしなくていいから、次どうするかを考えなさい!!!」と、ガチで叱責された。
私は思った。
「たしかに…!」と。
謝罪したり自己卑下する(無用にへりくだる)ことで「次どうするか?」という思考がストップするのだ。
そう。どんなにペコついても、ミスはミスのまま。
ミスの据え置きであり、ミスの現状維持だ。
謝りグセのあったわたしは、そのことに気づかなかった。ミスに対して何が必要かといえば、プラマイゼロにする「解決策」だ。
こうである。
さんざんこすり倒されている「謝って済むなら警察はいらねぇ」のくだり。あながち間違っていないのだ。
「でも、謝るのはノーリスクだから、謝ってもいいんじゃない?」
とも、思った。
たしかに、ノーリスクっぽいし、必要なときに謝罪がないとブチ切れられるのは確実だ。
でも、想像してみてほしい。
渋谷のハチ公前で友人と待ち合わせをしたとする。
自分が先についたものの、友人はまだこない。
そして、すこし遅れて友人がやってくる。すると、到着するなり涙ながらに土下座で「遅刻して本当にごめん!!!謝って許されることじゃないよね!?あぁぁ・・・。本当にごめんなさい・・・!!」と、ワンワンと泣きながら謝り始める。
どんな気持ちになるだろう。
そして、周りの目はどうだろう。
泣きたいのは、謝られた側である。
極端な例を挙げたが、一方的な謝罪は相手の気持ちや顔色を無視して謝る身勝手さがあるのだ。ついつい謝りたくなるが、謝ってスッキリするのは謝った側なのである。
「いいよいいよ・・・、大丈夫だから。」
と、気を遣わせることにもなる。
また、質ではなく、量でくるタイプ(過去のわたし)もいる。
ことあるごとに「すみません」「ごめん」と謝るパターンだ。これをすることで起こるのは、謝罪のデフレだ。
需要と供給のバランスが、おかしなことになる。
めっちゃ余る。謝罪が。
いらないのだ。そんなにわたしの謝罪は。
そんな自戒を込め、わたしの属するコミュニティや家族内では【謝罪禁止】を基本ルールとしている。
謝るかどうかのボールは、常に相手がもつ。
つまり相手から「この件については謝ってほしい」と言われたときのみ謝る。それ以外は、1ミクロンたりとも頭を下げない。お互いに。
当然「謝っちゃった方が早いじゃん」とか「謝らないと感じ悪いよ」と、コメントをいただくことがある。もちろん一理ある。一切、否定も強要もしない。
ただ、謝らないメリットがあることも事実だ。
それは謝罪をやめたことで、建設的な会話が増えたからだ。
謝って済ませることができないので、自然と「次どうする?」と考えられるようになるからだ。対等かつ、発展的な関係性を築けるのだ。
上司部下、彼氏彼女、夫婦など。一方が謝り倒している関係性は、健康的といえるだろうか。わたしは、そうは思わない。というか、そうは思わなくなった。
❚ ②1日3食の食事
わたしは、1日3食をやめた。
一切、食べないワケではなく1日1〜2食に。
「夕方に1回だけ」という日も多い。これはダイエットとかではなく、自宅での仕事が増え、運動量が減り、「お腹が減った分だけ食べる」としたらこうなった。
当然、周囲からは「絶対たべたほうがいい」「身体によくないよ」と言われた。食事のことは詳しくないので、一理あるかもしれない。
しかし、
ビフォアアフターでみると、集中力が向上し、身体も軽くなった。寝起きも最高で毎朝が快活だ。とにかく、すこぶる調子がよい。もともと胃腸が激弱なのだが、お腹を壊すことも減った。
会社員のころは「仕事中、お腹が鳴ったらはずい」「残業になりそうだから、食べられるだけ食べよう」という理由で、いつもお腹がパンパンになるまで詰め込んでいた。
当時は自覚がなかったものの、食べすぎによる慢性的な眠気や身体の怠さがあった。それで、たびたび「ちょっと出てきます」と言っては居眠りをしていた。トイレや倉庫なんかで。
そういえば、イチローも言っていた
と。
大事なことは、必要な分を必要なだけ、なのだと思う。
トランクスも同じ轍を踏んでいた
そう考えると、ドラゴンボールのセル戦でトランクスが「オレは、父さんを超えてしまった。ここからオレの本気だす」のくだりも同じに見える。
と言い、スーパーサイヤ人の第3形態に変身するも、セルにフルボッコにされる。
これは、第3段階の変身は、体中の筋肉が大きく膨れ上がる反面スピードが大幅に下がる。よって、攻撃が当たらなくなり、エネルギー消費も激しくなる。
それを分かっていたベジータは、あえて変身をしなかっただけだ。
よく考えたら当たり前のことである。
とはならない。
「デカければイイよね」って単純な話ではないのだ。
当然、
こうもならない。
やはり、必要な分を必要なだけ、なのだ。
それでも実家なんかに帰ると「食べないと健康に悪い」と、ムリヤリたべさせられそうになる。もちろん一理ある。本人が食べる分には一切、否定も強要もしない。
それでも、わたしは食べない。
理由は単純明快、すこぶる調子がいいからだ。
❚ ③ 探しモノ
わたしは、探しものをやめた。
もともと片付けができないタイプで、よく「探し物」していた。
ある日、「一年でどれくらい探しものしてるんだ?」と気になり、計算した。
数字に実感をもたせるため、1日の8時間(仕事時間)におきかえた。
絶句した。「1週間もムダにしている」と。
逆に「探す時間がなくなれば、60時間をノーリスクで手に入る」と。
そう思い、片付けの本を買って読んだ。
そこに、
と書かれていた。イメージでいえばこんな感じ。
ここ↑から、◯(不要)が消えたら、こう↓なる。
つまり、◎(必要)だけ残せば、自ずと探す必要がなくなる。
極端な話、探しモノをしているときは◯(不要)があるということ。
わたしの場合は、モノよりも、PCやスマホなどの「データ」が◯(不要)だらけだった。いつも「あのファイルどこ?」とさがしていた。
こういった◯(不要)に、◎(必要)が埋もれていた。
よって、
わたしは年1回、PC・スマホ内のデータを全削除することにした。
もちろん本当にオサラバしたら困るので、あとから◎(必要)だけ再インストールしたり、一旦削除したゴミ箱のなかから戻す。
これをすると◎(必要)だけになる。
データも30〜40%カットされ、PCやスマホが激的に使いやすくなる。探しモノによって作業が中断しないので、思考も常にクリア。良いことづくめだ。
そんな話をすると「あとから『必要だった』ってならない?」「全部消したら、また必要になった時に探す手間が・・・」などなど、色々なコメントをいただく。もちろん、一理ある。一切否定も強要もしない。
それでも、わたしは消す。
なぜなら、
「◎(必要)だと思って残したが、◯(不要)だった」はあれど、「◯(不要)だと思って消したが、◎(必要)だった」は、一度もない。ローリスク、ハイリターンだ。
❚ ④ 電話
わたしは、電話にでるのをやめた。
キッカケは、ケータイをもち始めた中学生の頃。
ある友人と一緒に遊んでいる時のこと。その友人が電話に出たかと思ったら、ずーーっと話していて「あれれ、何しに集まったんだっけ?」と、違和感を覚えたことがキッカケだ。
その姿をみて、先約優先なんて言葉があるが「目の前の時間を大事にしよう」と思った。反面教師的に。
もちろん、先約には「自分との約束」も入る。
このため、自分で「この時間は◯◯をする」と決めた(約束した)時間には、他のことはなるべくやらないと決めた(少なくとも電話には100%でない)。
厳密には、電話については相手のタイミングでは出ないだけで、自分のタイミングで一応は折り返すようにしている。
しかし、
学生時代はそれでいけだが、会社員になってからはそうもいかない。休日でも平気で電話がかかってくるのだ。でも、絶対に絶対にでたくなかった。
どうしても休日に電話に出たくなかった私は、苦肉の策で「電話のことよくわかんないっす」的なキャラを演じた。
それでなんとか電話に出ずにやり過ごした。社会人としては失格かもしれないが、イヤなものはどうしてもイヤなのだ。
もちろん例外もある。
事前に予定を共有している場合は、電話をするし、電話を受ける。
人とのやりとりそのものは好きなので、メールもLINEも手が空いているときには即レスしている。
実はこの「電話にでない」は、あまり理解されにくい。
しかし、目の前の人との時間を大切にできる上、仕事の集中力も高くなる。また、江戸時代なんかには、スマホもPCもないので、目の前の人との会話を十分に楽しんでいたんじゃないかな、と思う。
❚ ⑤ 頑張れば付き合える人間関係
わたしは、人間関係で頑張るのをやめた。
前提として「人の一生を80年」と仮定すると、人生で会える人は限られる。
日数であらわすと
時間であらわすと
秒数であらわすと
わたし達に与えられた時間は、25億秒。そして、世界の人口は、約75億人。
つまり、生まれてから死ぬまで1秒に1人に会っても、死ぬまでにすべての人に会うことはできない。
「日本人全員に会う」でも、
オギャーと生まれてから旅立つまで、20秒に1人に会い続ける必要がある。
「それはわかったけど、何の話?」と思われたかもしれない。
なにが言いたいかというと「大切な命の時間を、苦手な人や嫌いな人に使うのはもったいないのでは?」と、思ったのだ。
昔のわたしは「自分みたいな分際が、人を選ぶだなんてできない」「なんとか関われるように努力しよう」と、苦手な人とも頑張って付き合っていた。
しかし、苦手な人と頑張って付き合うことで、心が疲弊した。さらに、疲弊したことで、本当に大切にしなきゃいけない人との時間を蔑ろにしていた。
どんなに好ましい人からパワーをもらっても、別でパワーを消費したら、マイナスになる。
実際、すべての人の期待に答えることも、すべての人に好かれることもできない。あの世界的スーパースターのマイケル・ジャクソンですら、アンチがいるのだ。
マイケルでムリなら、やっぱりムリだ。
それなら「自分が本当に付き合いたい人」「一緒にいて元気になる人」に、付き合いを限定してもいいはずだ。
もちろん、相手側にも選ぶ権利はあるので、いつも双方向の人間関係が生まれるとは限らない。しかし、相思相愛となる人間関係を探求していくこと自体は価値のあることだと思う。
自分がステキだと思う人たちに囲まれ、毎日をすごせたらどうだろう。人生の一瞬一瞬が豊かになるのではないか。
「好きな人とだけ付き合うなんて甘えじゃない?」「努力して付き合ったら良いところが見えるかもよ?」とコメントいただいたこともある。これも一理ある。
それでも、わたしは頑張ろうとすることをやめた。
これは自分が頑張らなくてもタイミングがすべてを解決するからだ。
例えば、夫婦喧嘩真っ只中の夫婦が遊園地に出掛けたら、お互い疲弊してしまうと思う。大事なのはタイミングだ。
「昔は喧嘩ばかりだったけど、大人になったら親友になった」
みたいな話はある。タイミングなのだ。
このため「一旦、距離をとる」というのが適切なのではないかと思う。タイミングの悪い時にわざわざ頑張って付き合う必要はない。
実際にわたしは、頑張れば付き合える人間関係と距離をとり、本当に付き合いたい人間関係を最優先させたことで、ストレスフリーな毎日を過ごせるようになった。
きっと、相手方も「大坂谷と距離をとって、ストレスへったわー」と思っているかもしれないので、お互いのためになるのだ。もちろん、時を経て仲良くなる友人も多々いる。
まとめ
ちょっと過激に聞こえた部分もあるかもしれない。
パンを一切れしかもっていないのに人に与えることはできないのと同じで、自分の心が豊かでないと、人を豊かにすることはむずかしい。
わたしの生業である、コーチ。
コーチという仕事は、心の状態がコーチングの品質に影響する。イライラしてたり焦っていると本当にうまくいかないのだ。わたしの課題が、クライアントさんに間接的に影響してしまう。
やはり、いつでも心をニュートラルにしておく必要があるし、わたし自身もそうしたいと思う。だからこそ「どうすれは自分自身がいい状態になるか?」と毎日問い続けている。身体、思考、感情。それぞれが良い状態であるために。
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