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夢の引越し便 #5-①

遠くで微かに部屋のチャイムが鳴った。
音が聴こえていることを感じる。空気を感じる。
ようやく安寧が訪れた。

ゆっくりと目を開く。瞼を開く前から、周囲に明るさを感じていた。
間違いない、僕の部屋だ。瞬きをする。目を閉じてまた開く。何も代わり映えしない、いつもの僕の部屋、いつもの僕の部屋のベッドだった。

もう一度、今度は確かにドアチャイムが鳴らされていることを認識する。
枕もとのデジタル時計に目をやると、7時32分に見えた。

まだ起き上がりたくはなかった。起き上がるエネルギーを持ち合わせていないような感覚だった。そもそも僕の家に来る人間なんて限られている。新聞屋か宗教の勧誘だろう。でも何故こんな早くに来るのだろうか。また、チャイムが鳴る。僕は気だるい体をなんとか起こして髪の毛を整え、玄関に向かいながら何を着ているかを見直し、ドアを開けた。そこには作業服姿の男が立っていた。

「朝早くすみません。タカハシ運送です。」
その男は7時半とは思えない表情、姿勢、声量で僕の眠気を吹き飛ばした。

「タカハシウンソウ?」
「はい、タカハシ運送のタナベと申します。」

彼の作業服の胸ポケットには「タカハシ運送」という名前と、見た事も無いネコのマークの刺繍がされていた。僕はそれを見て初めて、マユミの探していた「夢の引越し便」であることに気がついた。僕はなぜ彼が僕の部屋を訪ねてきたのかが分からず混乱した。彼は僕の様子など気にすることなく、礼儀正しく淡々と話し始めた。

「実は、先日ワタナベマユミさまよりお預かりした荷物をお届け完了しまして、料金のご請求に伺ったところ、2日続けてお留守なようでしたので、管理人さまの許可のもと、ご自宅を拝見させていただきました。その際にあなた様からの留守番メッセージを聞きましてお知り合いであり、事情を理解されているあなた様にご請求に上がった次第であります。」

「3つ問題がある。」

「なんでしょう?」

「何故たった数日で彼女の部屋に入ってしまうんだろう?2日家を空けることなんてよくあることじゃないかな。 2つ目は、僕は彼女の知り合いと呼べるほどの者じゃない。つい先日一度会ったきりで、多摩川で偶然彼女の依頼を耳にしただけだ。そんな人間がなぜ彼女に対しての請求額を支払わなければいけないんだ?そして最後に、これは彼女が言っていたことなんだけど、届け物は彼女の手元に渡っていない。それなのに金額を請求するのかい?」

僕は彼のペースに巻き込まれていると感じながらも、早朝とは思えない頭の回転で必死に抵抗した。もちろん、夢を運んでいるなんていう非現実的な事象には触れずに。

「私の口からは最初の1つについてだけお答えできます。我々は引越し業者ですから、お客様のお宅を拝見する理由などいくらでも作れるんです。実はお客様とのお約束の中で、お支払いは荷物到着時に現金一括払いという事になっておりまして。私共の扱っている荷物は大変貴重なものばかりですので、金額も相当高額になっております。当方の都合ですが、今月は「料金の回収強化・徹底月間」になっておりまして、私もお給料がかかっておるのです。恥ずかしながらもう一日も遅れることができないのです。なにとぞご理解くださいませ。」

「他の2個の問題については?」

「はい、その件についてですが、今あなた様のご不安を感じ取りまして、ここからは弊社支店長より直接お話させていただいた方がよろしいかと。なにぶん秘密事項が多い事柄ですので。こちらも当方の都合で恐縮なのですが、あいにく支店長は社外に出ない人間でして。できましたらこれから車に同乗いただき、弊社にお越しいただけませんでしょうか?」

僕は新手の宗教団体を想い描いた。こんな方法も一つの手だなと。
ただ僕の中で引っかかっている事実を明らかにするために、僕は彼の依頼を承諾することにした。

「準備をするから15分ほどもらえませんか?」
「ええ。どうぞどうぞ。ゆっくりお支度ください。私は事務所に連絡をしまして、車の中でお待ちいたしております。」

彼は僕に丁寧にお辞儀をし、アパートの階段を駆け足で降りていった。
僕はシャワーを浴び、テレビを見ながらジーンズとトレーナーを着た。
天気予報は午後から雨が降りそうだと伝えていた。僕は折りたたみ傘をバックに入れ、部屋を出た。
マユミに電話を入れておこうかと思って立ち止まったが、きっと居ないだろうと思い、戻るのをやめた。

彼は車の中で演歌を聞いていた。僕が助手席のドアを開けると急いでボリュームを絞り、
「やけに早かったですね。まだ、髪が濡れてますよ。」と言った。

「場所はどこにあるんですか?」

「登戸です。出発しますね。」

「ちなみに料金っていくらなんですか?」

「35万7千円です。」

僕は歩道に唾を吐きながら歩いているサラリーマンを眺めた。そのあと、35万円以上の価値があるものを浮かべていった。車、時計、アクセサリー、授業料、旅行、それらと同列で夢の引越しをイメージしたが、実感を沸かせることなどできなかった。

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