曲感想「春泥棒」byヨルシカ

2020年も思ったほど書くことが出来ず気づいたら2021年になってしまいました。今年も可能な限り自分の思いを文章にしたいと思います。アウトプットってなかなか難しい。

さて、今回はヨルシカの新曲「春泥棒」です。前のアルバム「盗作」が発売する前に新海監督がアニメーションを作っている大成建設のCMで聴いた時にもいい曲だなと思っていて、いざアルバムが発売されたときに「盗作」には収録されておらずなんでだよ!と思った記憶が。

ヨルシカは本日配信Liveを行っていて、ライブ終了後にフルverがついに初公開となりました。PVは「ノーチラス」と同じ森江さんです。

CMで聴いたところはサビの部分で、そこだけだとヨルシカの爽やかな曲というイメージが強かったこの曲。PVと一緒にフルを聴き、歌詞を追うと爽やかながらとんでもなく切ない曲で久しぶりに曲を聴きながら泣いてしまいました。

ヨルシカの曲はなんとなく誰かを失った人と、その失われた人からの視点で描かれている事が多いように感じます。ファーストアルバムの「言って。」に対しての「雲と幽霊」、アルバム「僕は音楽を辞めた」のエイミーに対しての「エルマ」。そして「盗作」の主人公に対しての「春泥棒」PVで主になっている女性。皆さんが考察しているようにきっと「盗作」の音楽泥棒の奥さんであり、「盗作」の曲や小説の描写からこの世にはきっといないのだとうという事が推測されましたが、本曲のPVでの表現を見るとその通りなのだと思います。

その女性から見た視点で描かれる「春泥棒」の映像はとても綺麗です。見上げたところに舞う桜吹雪に花火。でも隣にいる男性(「盗作」の主人公)はこちらに気づく様子がない。女性は現実から居なくなってもずっと男性の傍にいて様子を見ていたんでしょうね。映像の中で描かれる風景や花の美しさが女性にしか見えていないような雰囲気も感じる中、女性は「今日も会いに行く」。

ただ、「残りはどれだけかな どれだけ春に会えるだろう」「春がもう終わる」曲の歌詞から察するに女性がこうして会えるのはきっと春の間だけなのだと思います。桜の花が咲いている「春」だけは言葉が通じずとも男性と会える季節。だからこそ花を散らせる風=春泥棒 なのだと自分は解釈しました。

そして個人的に一番グッと来て自分なりに解釈した際にまた泣けてきたのがラストのフレーズ。

あともう少しだけ

もう数えられるだけ

あと花二つだけ

もう花一つだけ

映像の中で吹き荒れる桜吹雪。自分たち日本人はとてもその光景が綺麗で素敵だと思うけれど。n-bunaさんが曲の説明で書いた「命を桜に喩える」のなら、きっと飛んでいく桜は命が消えていく瞬間なのです。その上で前作「盗作」の中で個人的に一番好きな曲「花人局」の歌詞

花一つ持たせて消えたあなたのこと

花を命に喩えるなら、ここは「自分1人だけの命を持たせて死んでしまったあなた」へ向けた歌であると解釈出来ないでしょうか。

この部屋にもまた春がきて 貴方のいない街を生きる

前述の通り女性はきっと春だけはすぐ傍に戻ってきてくれるはずです。部屋には春の匂いがする のはきっとそう言うことなんだと思います。

「花人局」と「春泥棒」のリンク。切なくてまたこの2曲が好きになりました。

春には桜が咲き、風が吹けば桜吹雪となって空を舞う。そんな当たり前の光景なのにふと喩え方や表現を変えるだけで全く表情を変え、それをこんなに素敵な曲にしてくれたヨルシカの2人は本当に凄い。まさにこれから春を迎える季節。今年の春と桜はいつもとは違う視点と意識で迎える事が出来る気がします。



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