見出し画像

華奈

ハーフパンツに虹色のボーダータイツを会社にはいてくるような子だった。

当時、大手企業で派遣社員として働いていた私のフロアに新しく入った派遣さんに、お偉いさんは分かりやすく服装に眉をひそめてたし、私も自分とは住む世界が違う人だと思い込んでいた(私も服装で判断していたのだ)。

でも、見てきた世界や好きなものが全く違うのに、私たちは何故かものすごく惹かれ合ってあっという間に友達になった。勤務棟が変わっても社内便で手紙を送りあい、今でもその手紙は全部大事にとってある。

彼女はファッションが大好きで、お金を貯めたら服飾専門学校へ行ってデザインの勉強をすると言っていた。私はと言えば、お金をためて旅をすることしか考えていなかったのでファッションとは程遠く、センスのかけらも無い服を着ていたのに、彼女は私の服装で何も判断しなかった。彼女は何の壁も無く、まっすぐに私という人間を見てくれた。

「センスというのは服にだけ現れるものじゃない、その人と話して感じるセンスがある。あなたには伝えたいことが何のフィルター(たてまえとか見栄、順応や偽り)も通さずに後から後から出てくるの。伝えたい気持ちになることが私は嬉しい。」

派遣で一緒だった時期は短くて、実際に会っている時間は多くはなかった。
彼女の大好きな焼き鳥屋や、麦とろの店、青山のカフェや、一度だけ遠出した葉山の海。彼女と出かけた思い出はそれくらいしかない。方向音痴な私にはもうそれがどこだったのか具体的に思い出すこともできない。

彼女は派遣を一年やった後、服飾専門学校に入り自分の好きな勉強を始めた。私は同じタイミングで派遣の仕事を辞め、ためたお金で四国、北海道、アフリカと旅をし、翌年には旅先の宿で住み込みで働き、それぞれ道はだいぶ離れてしまったけどずっと手紙をやり取りしていた。ここぞというところで背中を押してもらったこともたくさんある。今の自分へつながる分岐点の一つは彼女の言葉だったりする。


2000年2月24日、上野のフレッシュネスバーガーで彼女と話をした。

私は大切な人に出会い、恋をして、地元を離れて恋人の住む街で暮らすことを決めたところで、そしてその日は引越し当日だった。

引越す前にどうしても彼女に会いたくて、上野で待ち合わせして少しだけしゃべった。いつも迷う私を励まし、勇気づけ、自信を持ってと笑顔で背中を押してくれる彼女が、その日だけは少し弱気だった。
専門学校で学んでいる「市場で求められるスキル」が自分の将来に本当に必要なものなのかわからないと、そしてやはり別れた恋人が自分にとって唯一無二の存在みたいだと言っていたのを覚えている。

私は私なりに精いっぱい彼女を元気づけたつもりだったけど、何の力になれたとも思えない。そのあとも私は新しい生活に舵を切った自分のことで頭がいっぱいだった。新しい町で仕事を探し、なんとか経済的に自立出来たころ、彼女の携帯に久しぶりに電話した。もう引越しから半年近く経っていたと思う。

携帯に出たのは彼女のお母さんだった。

「華奈は春に体調を崩して…」という言葉が聞こえてきたとき、ほんの一瞬嫌な予感がしたけど、入院してるとかそういう話だと自分に言い聞かせた瞬間、携帯から「亡くなったんです」という声が聞こえた。

そんなことがあるはずがない、どうして、なんで、

混乱してたくさんの言葉が溢れそうだったけれど、ここで私が泣いたり取り乱したりしたらお母さんがさらに辛いだけだと必死に我慢して冷静に話を聞いた。

急性心不全で亡くなったとのこと。3月半ばに。

3月半ば?

私が最後に華奈に会ったのは2月24日だ。その日から1ヶ月もたたないうちに彼女はこの世から居なくなっていた。私が引越してすぐじゃないか。

共通の友人など一人もいない私たち、誰が連絡してくれるはずもなかった。私はずっと知らないままに私は「落ち着いたら連絡しよう」とばかみたいに一人で思っていたのだ。

20代の友人が突然病死するなんて想像できるわけも無い。
でも今残っているのは彼女の手紙と一枚の笑顔の写真だけ。

華奈の手紙にはいつもまっすぐな思いが書いてある。
その言葉は今も私の中にはっきりと残っている。
忘れられないこの言葉をここに書いておきたい。

「生活して行くには最低限のお金は必要で、お金は社会の中からしかまわってこない。どのように社会と関わってゆく事が自分にとって心地よいのか、自分のスタイルは何か、探し続けたい」

私も探し続けたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?