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原始時代に生まれたことを呪う、という考え方

写真は何も関係ない、前にタイに行ったときに行ったゾウ園の写真。ただ「区切られている」という概念を表現するためだけの檻とも言えないような敷居が、タイと言う国のおおらかさとゾウの賢さを同時に証明している感じがする。

原始時代とは何か、というと、それは現在のことだ。人々があらゆる欲望を満たすことができず、また生まれ持った格差などを是正されること能わず日々苦しみの中で生きている時代のことを指す。

自分がどれくらい恵まれた人間か、環境か、という話はあまり意味がないのでしない/考えないようにしているが(自分より恵まれていない人よりは恵まれていて、自分より恵まれている人よりは恵まれていない、以上のことが何も言えない)、少なくとも一人の生きる人間として様々な苦労が日常にある。

昔のことを調べると、信じられない、そんな環境でどう生きてたんだと思うことがあると思う。電気がない時代、医療がない時代、平和がない(これは場所とセットの概念だろうが)時代、人々がそれらを嘆いたかと言われれば、多分そんなことはないと思う。そもそもそのような問題がクリアされることを想像ができないからだ。たとえば弥生時代の人間にとっては、外気温こそが室温、病死こそが寿命みたいな感じであり、そのようなことに悩まされないようなことがありえるという発想がそもそも出来なかったであろう。

そしてそれは現代と未来においてもきっと当てはまると考えている。今自分達が悩んでいるような、例えば1日8時間週5日(これだって相当恵まれた状況なのだろうが)も働かされてつらいな~みたいなことは、きっとどこかの未来の人間にとっては「まあ、原始時代には`*{~@^0>(何か労働を解決する未知の概念。現在の言葉では発音できない)がないからそんなことをしないといけなかったのね、かわいそう」と憐れまれるくらいのことなんだと考えている。もっとも直近の話だと、リモートワークという概念の普及前後がこれのわかりやすい例だろう。

そういった苦しみと向き合う、というか慰めるための呪文としてこういう言葉をよく使ってしまう。ポジティブなのかネガティブなのか微妙なラインの考え方な気がするが、呪文という言葉の通り、少しでも気を楽にこの衆生を「生ききる」ためのおまじないみたいなものである。

自分と同じく無能で、怠惰で、無教養で、失礼で、体力も愛想もない人たち、同じように「原始時代に生まれたことが悪かった」と考えてみませんか、という話でした。

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