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ドラマ「25時赤坂で」総評感想。(改行あり)

すみません。先程UPしたものは、改行がされてなくて読みにくいので、お読みになって下さる方は、どうぞ此方を😂 (内容は同じです)

🐳🐳🐳

ドラマ「25時、赤坂で」は、BL作品としての原作漫画があり、所謂、”原作ものドラマ”だが、このドラマは、他の”原作もの”とは一線を画す作り方がされており、私はそこに大変興味をひかれている。
この作品の作り方が、今後も作られていくだろう”原作ものドラマ”により多くの望ましい影響を与えてくれることを、ドラマファンとして、切に願っている。

このドラマは、冒頭の始まりこそ原作と同じ始まり方だが、その後の展開は原作とは違うストーリーになっており、その違うストーリーの中で”原作で描こうとしていること”を別の方法で表現し、別の視点から深掘りした上で、最終的には、原作以上の納得感を持って、原作にそのまま繋がるように帰結した最終回となっている。
本当に見事な構成だった。

このドラマは、主人公2人のビジュアル再現度の高さも相まって、原作の良さを損なわなかっただけでなく、原作に更なる魅力を付加した作品とも言える。
このことを可能にしたのは、ドラマの制作にあたって、プロデューサーや監督が、原作者や担当編集者と時間をかけて綿密な打ち合わせを度々行い、制作側が作ろうとしているものについて、原作者が全面協力していたことが大きな要因だと思う。
クレジットには原作者としてしか名前が挙げられていないが、ほぼ、制作協力のような関わり方。
そのようなやり方を双方がとっていたからこそ、”原作で描いていたもの”を踏襲したまま、違うストーリーを展開することが出来、内容を深掘りすることも可能となったのでは。

(因みに、”アナザーストーリー”ではない。原作にも使われているエピや台詞を原作とは違うやり方・違う意味を持たせる等して再構成した、原作とは違うストーリー。その中で、原作ではあまり深掘りされていない、主に主人公2人の内面の揺れ動きに焦点を当て、2人の内面の変化・成長に伴って恋人関係に至った過程が描かれている。原作storyと比較すると、仕事や恋愛を通して人間的な成長を遂げていく主人公達を描いたstoryとも言え、BLという枠を超えた、誰にでも当てはまる普遍的な内容になっている。)

🐞🐞🐞

この作品は、俳優2人(羽山・白崎)のラブストーリーである。『ラブストーリーは、(出逢った)2人が、お互いを唯一無二の存在だとやっと気付くまでの話』。
これは、初回、主人公2人が共演する劇中劇「昼のゆめ」の出演者顔合わせシーンで、現場監督が口にする言葉だが、
(このシーンもドラマオリジナル。台詞もオリジナル、現場監督もオリジナルキャラ)
この台詞こそが、ドラマ「25時、赤坂で」の内容を端的に表している。

何故、お互いがお互いのことを唯一無二の存在と感じるのか。
人は誰でも唯一無二の存在として生きているが、人生のパートナーとしての、自分にとっての唯一無二。自分にとっての必然性。

そこをしっかりと描く為の、主人公2人其々の人物描写であり、心理描写。
2人を取り巻く周りの人との間で交わされる会話・周りの人との関係性・俳優として向き合う仕事として描かれる劇中劇は、2人の人物像を浮き彫りにする為に存在し、2人の心がどんな場面でどのように動くのかを視聴者が知る手掛かりとして存在している。

何かが起きて ”ストーリーが動く話” ではなく、俳優としての仕事をしながらの日常の中で ”心が動く話”。
その”心の動き”は、主人公2人の内面に変化を起こし、人間的に成長させ、その人間的な成長が、2人の恋愛を成就させていくというstory。それが、ドラマ版の「25時、赤坂で」。


何かが起きて、物語が動く中で、出逢った2人が恋に落ち、恋人同士になっていく恋愛模様を描いたstoryとは全く違う。
2人が見つめているのは、相手のようでいて、実は自分自身。
ドラマ版で、主人公の1人である白崎の台詞の半分以上が自問自答のモノローグであることも、それを表している。
そして、最後まで自問自答をし続ける白崎の描き方は、そのまま白崎の人物描写になっている。


対するもう1人の主人公・羽山は、全10話のうち7話を除き、殆どモノローグはなく(6話までは皆無)、人物描写は、羽山の表情や言動によってのみ示される。
7話は、現在の羽山を形成した幼少期の出来事、白崎との出逢い、そして6話までの出来事を羽山自身がどう感じ、どう思っていたかを、羽山自身の回想、羽山自身のモノローグという形で振り返る回になっていて、白崎目線でのみ描かれていた6話までの”相手側の話”になっている。

この7話で、視聴者は、羽山と白崎が、同じ時間、同じ出来事を共有しながらも、其々が違う感じ方、受け取り方をしていたことを知るのだが、実は、それこそが、このドラマ版の制作を手掛けた監督が、この作品で描きたかったことのようである。
(最終回前、監督自身が ”「人と人との分かり合えなさ」をテーマにした” と制作局HPの記事で書いている)

僅かな、微妙な表情の動きと、その人の普段の言動だけで、その人自身を理解することの難しさ。

それは、ドラマ内で、白崎と羽山が体験することでもあるが、7話で一旦2人の物事の捉え方の違いが呈示されて以降、また8話からも殆どモノローグが出てこない羽山の描き方を行うことで、白崎羽山同様、視聴者までもが、中々上手くいかない切な過ぎる2人に感情移入をしながら、最終回後半で2人の恋愛が成就するまで、登場人物同様、視聴者も、それ(人と人との分かり合えなさ)を実体験することになる。

(最終回前半、2人は溢れる思いを抑え切れず、遂に身体の関係を結ぶ。ただ、そのシーンは、物語の羽山だけでなく、視聴者の誰もが”2人の恋は成就した”と思ったはずだが、白崎だけはそう思っていなかったことが、その後、白崎のモノローグで明かされ、そこで視聴者は驚くのである。
何故、端から見ていれば分かるほどの羽山の白崎への気持ちを、白崎自身は分かっていなかったのか。白崎が羽山から想いを寄せられていることを理解するのは、一夜を共にしたあと、心の中で羽山に別れを告げ、2度と会うことはないと思いながらの帰途、羽山が追いかけてきて白崎への思いを”言葉にして”きちんと伝えたことによってである。

振り返れば、視聴者も7話を見たからこそ羽山の気持ちが分かった訳で、伝えたいことは、きちんと言葉にしなければ相手には伝わらない。
また、言葉にしたところで、きちんと相手に伝わったかどうかは分からない。先入観や思い込みが、言葉をそのまま受け取ることの邪魔をする。
人と人とが理解し合うことは、それほど難しいことなのだと、ドラマ版の「25時、赤坂で」は、そのことを全10話をかけて丁寧に描いた作品だと思う。)


心理描写に主眼を置いた作品では、視聴者は登場人物の心理解釈をして楽しむものだが、このドラマは、それを見ている視聴者に、登場人物の人物解釈・心理解釈を引き出そうとする為に作られたような脚本構成。

だからこそ、この作品を見た人は、羽山や白崎の人物像や心の中を自然に考えてしまうようになり、そこに感情移入をすることで、より作品の内容が心に響き、作品の満足度も、より高められたのではないかと思う。

因みに、主人公2人を演じた、駒木根葵汰、新原泰佑の演技力の高さは特筆すべきものがある。
駒木根は、台詞が無い時の表情や表現がとても繊細であり、新原は、白崎の恋愛感情の高まりによって、まるで別人のように表情だけでなく、瞳の輝きまでもが変わってしまう。
両名とも、他作品で演じている様々な役もそうだが、役によって、表情だけでなく、声質も佇まいも変えて役に成りきった演技をする。
駒木根に至っては、作品によっては同じ俳優とは思えない位に別人に感じるほど。
主人公2人のビジュアルの再現度の高さだけでなく、この2人の演技力が無ければ、「25時、赤坂で」は、ここまでの作品になったかどうか分からないくらいだ。
2人は、羽山・白崎に成りきっただけでなく、その羽山が演じる劇中劇の涼二役、白崎が演じる劇中劇の拓海役でも、また別の表情で役に成りきっている。
(羽山には人気俳優としてのオーラや佇まいがあるが、涼二にはそうした部分がなく、表情もやや男性的。白崎は頑固で頑なさを持った雰囲気だが、拓海にはそうした部分はなく、素直で純情な表情をする)

この作品の劇中劇「昼のゆめ」は、全話を通して、2人の俳優としての仕事としても、物語の大事な演出要素としても、重要な意味を持って継続して描かれており、駒木根・新原の両名は、このドラマで其々2役を演じていたと言えるかもしれない。両名とも、先が楽しみな俳優である。

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最後になるが、この作品には、インティマシーコーディネーターと、作品の特性から、LGBTQ+インクルーシブディレクターが関わって制作されている。

そのお二人が関わったことにより、脚本では、キス等の前に相手の同意を確認する台詞・描写が徹底されており(性的同意)、性描写時には、啓蒙的要素として、使用した避妊具の包みのカットが挿入される等、配慮がある描写がされている。

また、初回、ゲイバーが出てくるが、当時者が不快な思いをしたり、視聴者に誤解を与えないよう、「ここはそういう場所(性交渉の相手を探す場所の意)じゃない」という台詞が追加された。

性描写に関しては、キャスト・スタッフらが、事前に話し合いを重ねながら演技の詳細を確認して撮影したことを、キャストらが自ら様々な場で述べており、

劇中劇内での性交渉撮影シーンには、インティマシーコーディネーター本人が  ”制作スタッフ役”としてドラマ内に登場し、視聴者側のインティマシーコーディネーターについての仕事の理解を深める内容にもなっている。

昨今、インティマシーコーディネーターの存在は、様々に話題となっているが、ドラマ撮影現場での介入までを描いた作品が他にあるだろうか。

この作品は、主人公2人がBL作品での共演を通して出逢い(正しくは、”再会”)、そのBL作品(劇中劇)の撮影(役作り名目)を通して、恋愛感情を育み、俳優としても、人間としても成長。その結果として、互いが互いに唯一無二の存在だと理解し、恋愛を成就させるstory。
その為、撮影現場のシーンが多い。

撮影現場のシーンでは、本物の撮影現場の再現がされていたらしく、そうしたシーンが当たり前に登場する作品だったからこそ、撮影現場で実際に動いている(衣服の着脱、ベッドシーンでの配慮)本物のインティマシーコーディネーターをドラマに登場させることが出来たのかもしれないが、そのシーンは、ドラマ内容とは別の次元で、視聴者にとっても有益な情報だったことは間違いがない。


追記。


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