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『機界戦隊ゼンカイジャーファイナルライブツアー』を見て・・・からの自分語り。

昨夜、何となくXに書き始めたら、段々と個人的な話になってきて、ちょっとそのままXに置いておくのが憚られたので、それまでポストしていたものは削除、最後に書き始めていたものは此方で続きを書いて、此方に全部移してまとめました。

削除前、Xで途中をお読みになっていた方がいらしたら…

そして、
削除した内容が気になる人が、もしいらしたら…
此方をどうぞ😂
(後半は自分語りになってますが)

(“見つかりません“は、ポスト削除の為です)

🐰🐰🐰





それともやっぱり、私がどうかしてるだけ?

ゼンカイダンスMVでの彼を何度もリピ見したくなる理由は自分でも分かってる。
あれを見てると、懐かしい生徒達の顔を思い出すから。
忘れることなんか絶対に出来ないし(忘れる必要もないことだけど)、何なら毎年送っていた年賀状を止めてしまったことに後ろめたさがあるくらいだけど、“もう終わったことだから“と自分に言い聞かせて、思い出さないようにしていた…大切な思い出。

みんな、元気かな…


🐤 🐤 🐤

自由にやっていた音楽の授業は、ダンスを取り入れてやっていた。
まだ、学習指導要領にダンスが含まれてなかった頃。
私が学校を辞めたあと、体育にダンスが取り入れられたのを知って、考えていたことは間違ってなかったんだ…と感じた。
(今はもう、誰でもダンスが身近になっていて、喜ばしい限り😆)

ラップをやってみたり、歌を作ったり、成果があったかどうかは分からないけど、楽しんでくれてた子も沢山いて。
卒業式は、1人1人の生徒が考えた歌詞を色々組み合わせて歌詞にして、それに私が曲を付けて、皆で歌った。
その年で学校を辞めることは、最後の授業で生徒達に伝えていて、正式な人事異動前に生徒達に伝えたことは結構な反則だったけど、卒業式前に生徒に伝えておく為にはそうするしかなかった。
それに、一番伝えたかったのは、ダンスやラップを楽しんでくれていたあの生徒達だったから。

卒業式が終わって生徒達がいなくなったあと、私は職員会議にも出ずに、誰も来ない放送室にいた。
全部終わってしまったと思ったら、完全に涙腺が崩壊してしまって、涙が止まらなくなっていたのもあるし、1人になりたかったのもあるし、どうせ会議の議題は次年度の話で、退職する私には関係なかったし💦
(もう誰もいないだろうと時間を見計らって職員室に戻るとき、まだ学校に残ってた先生と会ってしまい、散々泣きはらした私の顔を見て、“泣いてましたね?笑“…と悪戯っぽく言われてしまった💦)

学校を辞めて、やりたかったことを始めて…
収入が少なかったから、バイト代わりに不登校の子の家庭教師?遊び相手?みたいなこともしてたし、勉強しなければいけないことも山ほどあって、夜は勉強会や症例検討会に出たりもしてたから、帰宅はいつも23時過ぎ。
学校に勤めていた頃も忙しかったし、休日返上で仕事してるのも当たり前だったから、忙しいのはそんなに苦にならなかったけど、収入と身分が安定しない生活は、想像以上のストレスで、いつも気持ちに余裕がなかった。
それでも、覚悟を決めて始めたことだから学校を辞めたことに全く後悔はなかった。
でも、何年かすると色々と起こるんだよね。
イレギュラーなことが。

後悔は全くしなかったけど、学校に勤めていたときの記憶や思い出は封印してしまった。
封印というより、捨てたに近かったかもしれない。

最終的に、私は身体が上手く動かせなくなり、まだ疾患名がポピュラーではない頃で、ドクターショッピングを2年ぐらい続けた。
その間、詐病だの人格がおかしいだの、散々なことを医師から言われ続け、本当に人間が嫌になった。

その後、ある疾患を伝える新聞記事を見て、もしかして?と受診。
でも、ようやく何の疾患かは分かったけど、治療法はまだ確立していなくて。
効くかどうかも分からない治験まで大学病院に入院して受けた。
その治験で、随分身体は動かしやすくなったけど、それも一時的。
身体はまた動きにくくなってきてたし、動きにくいだけで可動域制限もなく、パッと見、どこも悪くないように見えるらしく、身体の状態もその時々で違うのと、その疾患や状態、症状が医師でさえ知らない人もいるほどなので、中々人からは理解されず。(親兄弟含め)

理解出来ないらしい(調べるつもりも無さそうだった)疾患について、親はドクターショッピングで散々言われたようなことを人に話すし、身体の状態は全く改善しないし、治療も殆ど無意味で、あの時はもう本当に、人間がいる場所には生きていたくなくて、全ての人間関係を捨てた。(死のうとしたけど死にきれなかった)

その後、あることがきっかけで、私は生きる意欲を取り戻し、私の疾患も割によく聞く名前になり、治療法も進んで割にポピュラーなものとなり(対症療法に過ぎないけど、一応は一時的に効く)、一旦、仕事が出来るくらいには身体が動かせるようにもなって。

ただ、そのうち、その治療で使う薬剤の量(厚生労働省の基準最大量)では効果が持続しなくなり、仕事は辞めるしかなかったけれど、それでも毎日幸せを感じながら楽しく生きて来られた。

でも、封印した過去は解かなかった。
解くつもりも無かった。
一度捨てたものだしね。
捨てたものを拾う資格はないとも思うし。

随分長く自分語りをしたけれど、その封印した過去を刺激してきたのが、葵汰君がフルで踊ってるゼンカイダンスのMV動画で、刺激されたまま見たファイナルライブツアーは、私に更に強い刺激を与えた…ということなんだろうな。多分。

舞台でキャストが並んでいる列から下がって、後ろの方にある“舞台上のステージに上がる階段“に目立たないように座って顔を伏せ、側に行って気遣う人達に答えることなく耐えていた葵汰くんは、まるで卒業式のあとの私。
それを見たから余計に…だったかも。
今になって気付いた。
その時の葵汰くんの中に、どんな感情があったのかは分からないけれど、状況的に似た感情があったような気がして。
これ以上がないような嬉しさと、これまで関わってきた人達に対する感動と、自分自身の達成感と、これで全てが終わりという思いと、これをこれからに繋げていこうという気持ちと。
違うかな。違ったらごめん。

あの時の私は、あの子達のことしか頭にない毎日を送っていた。
仕事なんだけど、仕事感覚が全く無くて、休日も仕事していた。
生徒達も、何故かこんな私を慕ってくれていて、退職後の引っ越しまで手伝いにきてくれた子達までいた。
あの時貰ったものはまだ全部持ってる。
それだけはこれからも捨てられないと思ってる。
うっかり落として割れてしまったコーヒーカップまでいまだに持ってる。

でも…生徒にとっては、出逢った教師なんか忘れてしまった方がいいような気もしてる。
だって、教師は教師の立場でしか、生徒のことを見たり考えたり接することが出来ないから。
少なくとも私はそう。
そうではない人も、そうではないと考える人もいるだろうし、卒業後は1人の人間対人間の付き合いだと…私もそれを否定はしないけれど、でもやっぱり、あの子達と関わる時に、教師としての感覚や立場を全く無くしてしまうことは、私には無理。
これだけ時が経ってもそう。
あの時も、あの生徒達に今の自分は相応しくないと思った時点で、私は関係を断つしかなかったし。

それに元々、私は誰の教師でもいたくない。
だから、学校を辞めたのもある。
教師の立場の自分が、本当に嫌だった。
生徒達のことは大好きだったし、必要があるなら出来る限りのことはしたいと今でも思うけど、
“教師“でいるのが、とにかく嫌だった。
誰とでも、対等でいたい。
自分が目上なのは嫌。
自分が目上になるくらいなら、下でいる方がまだマシ。
立場や所属、人間関係の状況によって、言いたいことが言えなくなる窮屈さは嫌だし、そうなってる相手といるのも嫌。言いたいことは言ってほしい。(でも、それを望むのは我儘なことも分かるから、そういう場面に出くわしても“仕方ない“と思ってるけど)
対等ではない関係ではいたくない。疲れるだけ。
まぁ、だから出来るだけ、普段から人間関係を作るのを避けようとするんだけど。

あと…教師も生徒も、変わっていく。
その時々にその人に必要な人は、違う。

こうして書いてると、自分を俯瞰的に見られるようになる気がする。

こんなに長い自分語りをお読み下さった方、本当にお疲れさまでした💦
ゼンカイジャーの話でもない…こんな個人的な話にお付き合い頂き、ありがとうございました。

にしても…
この頃は、一泣きする毎に、気持ちが元気になってきてる気がする。
(一雨毎に暖かくなる…のは、春間近の北海道。
まるでそれみたい💦)
私の気持ちをいつも揺さぶってくる作品には、最近いつも葵汰君がいる。
実は“鬼門“なのか、今の私に必要な人なのか…
どっちだか分からない…😂😂😂


ゼンカイジャーのMV、貼り付けておきます。
これを見て、平常心でいられるようになったら、
私が少しは前に進めたということかも。


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