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困難を生きた人は最高を創造する

順調に進んでいたときよりも予想不可能なことや理不尽なことが起こったときこそ、自分自身や企業が目指したいものが何かということを明確に認識することができます。
予測不可能な問題が起こったときにこそ、目指したいものが固まっている。

また、この仕事を人生をかけてどうしてもやりたいと、熱く語っていた人になぜそうなるのかを聞いたところ、以前難病で生死の境をさまよった経験があり、そのときに「こういう風に生きたい」と気づいたと語ってくれました。

予測不可能な事態が起こる環境や理不尽な環境にさらされたときに、人は、どんな環境であろうとどうしてもここに行きたいと、初めて理想とする世界を決めることができるというのはよくあることです。

それでは次に、なぜカオスな環境にさらされると人は最高を描きやすいか? という疑問になります。

そもそも「カオス」とは、「混沌とした秩序のない環境で予測が不可能である」ということです。

その混沌とした世界で自分の思い通りに行かない経験をすることで、自分が何を求めているのかの認識を重ねていくことになります。もしも世界が自分の思い通りであり、思い通りに進まない環境を経験しないのであれば、「社会をよくしたい」という概念が生まれることはありません。

人はカオスな環境にさらされると「自分軸」を持てるようになります。

例えば、規則正しい流れでどこにたどり着くかわかっている清流であれば身を任せても何の問題もないかもしれませんが、どこへ行きつくかもわからない大海にいるのであれば、自分の羅針盤が必要不可欠となります。カオスな環境では、他力本願では行きたいところへ行けません。

大海で予想外の流れに流されそうになって初めて、そっちは自分が行きたい場所ではない、と認識できます。

つまり、カオスな環境によって自分の理想を認識しやすくなるのは、「1. カオスな環境によって自分軸が認識できるから」、また逆に、「2. 自分軸がないと行きたいところにいきつけないから」ということになります。

それでは次に、なぜカオスな環境によって自分軸が作られやすくなるのか? という疑問になります。

カオス環境だと自分軸が作られる理由

カオスな環境、つまり予測不可能な無秩序混沌の世界にいると、予測していなかった方向に行ったときに「何故そうなったのか?」という疑問が生まれます。

カオスな環境だと、この「何故?」の力が働く回数が多くなるため、自分軸が作られていきます。

例えば、仮想通貨の価値がずっと一定に高騰していたときは投機目的で思考停止しながら投資していた人も、価値が予測不可能になったときに初めて、何故仮想通貨の価値が上がるのか? 仮想通貨とは何なのか? 何故自分は投資するのか? という思考が働くようになります。

また例えば、最初からその仕事がずっと存在している大企業に就職すると「何故その仕事が存在する必要があるのか?」について考えることは少ないかもしれませんが、起業間もないベンチャーのカオスな環境下であれば、仕事の存在意義はもちろん、「何故この事業は取り組んで他の事業は取り組まないのか?」「何故自分はこの仕事をしたいのか?」など思考する機会が増えます。

近年では、人工知能などのテクノロジーが「how」を考えることで飛躍的に問題解決できる分野も増えており、それよりも「why」を設計できる頭の方が代替性が低く価値があると言われてきています。

サイエンスにおいても、データが溢れる時代では、「どのように課題を解くか(=how)」よりも「何を課題と設定するか(=why)」の力の方が研究者にとってはより重要になります。

企業も個人も同じで、何故自分はこの方向に進むと嫌なのか、何故自分の会社はそこに向かいたいのか、その疑問を積み重ねていくと、目指したい理想の世界が浮かび上がってきます。

それでは次に、なぜ「何故」を積み重ねると自分軸が作られていくのか? という疑問になります。

なぜ「何故」が重要かは、主観的命題が原動力だから

直近で、自分自身や会社のメンバーなどの周囲で発生し、交換される「何故」の疑問を観察してみて、それが何故生まれるのかを考えていました。

その結果、問いはおおよそ以下に当てはまることがわかりました。基本的にすべて自身が関わる「主観」に基づく発想です。

・自分の生活に直接関係する事柄
・自分の未来に関係がある事柄
・自分が期待している(のにそうなっていない)事柄
・自分が関心をもつ事柄
・自分にはないものや異なる考え方

5W1Hの疑問視うち、howやwhatは客観的視点から疑問が生じる場合もあるのに対し、whyのみが「自分」に関わるとてつもなく主観的なものです。

つまり「何故」が発生した瞬間、その思考には主観が影響していることになり、逆に言えば主観を捉えるチャンスとなります。

例えば「この人は仕事ができる」は客観的指標を持って定量化できますが「何故この人は仕事ができるのだろう」と「何故」をつけた瞬間、自分との比較や、自分もこうなりたい、自分との差異は何か、など主観的な思考が含まれます。

また、「今は超高齢化社会だ」と言うことは主観抜きで客観的に話せますが、「“何故”超高齢化社会になっているのか?」となった瞬間、例えば自分の視点の基準は前の時代に比較基準を置いている、超高齢化社会ではない社会を望んでいる、超高齢化社会で起こる問題を解決したいと思っている(=本当はもっといい未来を望んでいる)、などの主観的な考えに気づくことになります。

「何故」の問いを設定することによって主観的な命題に気づくことができ、何を目指したいのかという「自分軸」が発生するようになります。逆に、「何故」の問いの設定能力が低い人は代替性が高く「自分軸」が弱いことになります。

つまり、なぜ「何故」が重要かというと、疑問の中で唯一の主観に基づくものであり、他には代替できない主観を形成する要素となるからです。

起業家でも「前に進む明確な理由がある人」が最も強いですが、その理由のほとんどは主観的な命題によって発生します。

それは企業にとっても同じで、ビジネスがうまくいっているときよりも、うまくいかないカオスなときの方が、何故それでもこの事業をやるのか、何故この事業をやらないのか、の問いを重ねることで企業として強くなっていきます。

「何故」の年輪を重ねることで、屋久島の縄文杉のように企業は太い幹を作っていきます。

「カオスな時代こそ、生き残るためには変人であれ」

現在の常識人は、「周りのマジョリティと一緒である」という他人軸なのに対して、変人というのは自分軸を持っている人です。

マイノリティであればいいと言っているのではなく、「カオスな時代には周囲に忖度している場合ではなく、堂々と自分軸を持つ人であれ」

他人にこう思われたいからこう、こうしてほしいと思われてるからこう、ではないということです。

日本で本当によくないなと思うのは、教育環境でwhyの封じ込めを一生懸命行っていることです。小学生の頃、なんで普通の鞄じゃなくて皆と同じランドセルじゃないといけないの? と聞くと、そんなこと聞くなんて変だと言われたのを覚えています。

しかし実際の社会では、教育によって封じ込められたはずのwhyの課題設定能力の方が極めて重要となります。

私自身、会社経営を通じて簡単には思い通りに行かないカオスな環境を経験したことで、起業前よりもwhyの問いの設定能力が飛躍的に上がったという実感がありますが、これは後天的に獲得可能な能力だと考えています。

アントレプレナーシップはAIには代替されないと言いますが、それは、why能力は人工知能には代替されないということです。

なぜなら、何をするか、どうできるかのhowは(時間があるから)限界があるが、whyについては生命が生きている限り主観的な世界に限界がないからだと考えています。

カオスな世界をどう見つめるか

カオスな時ほど、主観的な信念を心の底から固めていくチャンスでもあります。

これは、生物も、個人も、企業も、団体も、国も同じです。

しかし残念ながら、急にカオスな世界にさらされ過ぎて、潰れてしまう機会でもあります。

もしも今カオスな環境に身を置いていて、辛い想いをしている人がいるなら、「何故」の問いを積み重ねていくことで、能動的に信念を固めていくとよいです。

「何故自分はその環境がつらいのか?」「本当は何を目指したかったのか?」を積み重ねていくことで信念を積み重ねていくことができます。この積み重ねた信念は代替できない貴重な命題となり、それがカオスな世界を進撃する糧となります。

例えば、世界に飢餓や病気があって当然だと思えば何の問題もないし、逆にそうでない世界を願うほど解決すべき問題が山積です。つまり問題とは悪いことではなく、未来に対する希望を映す鏡のようなものだと思います

現在の社会が課題山積だと思うということは、そうではない未来を願っているということであり、それはそのまま、その世界を創れるかもしれないという可能性そのものということになります。

逆にもしこれまでカオスな環境を経験したことがなく、かつ自分の信念がわからない人がいるのであれば、自分にとって予測不可能な環境に飛び込んだ方がいいです。

国も社会も、超高齢化社会だから、人口減少だから、暗い世の中だからなど、課題が山積している社会だという悲観的な風潮に潰されてしまうのではなく、そこから最高の未来を描けるとてつもないチャンスだなと考えています。

そう考えると、今の時代は未来の可能性しか広がっていないと解釈できます。

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