最後の優待券

 川崎に住んでいた頃から贔屓にしているとある温泉があり、平日に旦那さんがお休みの折に向かいました。平日の昼間なら混雑もしていないだろうという魂胆でしたが、いざ足を運んでみるとそれなりにお客さんがいました。

 温泉の入り口で、旦那さんと布団のダニは天日干しだけでは死なないという内容の話をしながら通過し、靴をシューズボックスに預けようとした時でした。

「あなたたち、これから温泉に入るならこれを使いなさい。」

全く知らない、それこそ今この瞬間初めて出会った方に割引券を頂きました。二人でよくよく見ると、すごいお店の利用料がお得になるチケットでした。
「こんな貴重なものを良いのですか?」
旦那さんが質問をすると
「いいのよ。半端に残っちゃってここに来ることが出来なくなるから、使い切って頂戴。」
「そうですか…それならば、ありがたく使わせてもらいます。」
旦那さんの言に併せて
「ありがとうございます。」
お礼を述べました。

 温泉に浸かりながら、優待券を下さった方の言葉を吟味していました。
来ることが出来なくなる。温泉に入ることが出来なくなるのか、生活拠点が変わるのか、この温泉を心地よく感じなくなったのか、もっと深刻な状況があるのか。と、考えたところで答えは当人しか知り得ないことですし、初めて出会った方に根掘り葉掘り聞くものでもありません。

場所をサウナに変えて、黙々と考えます。
私の性格の良くないところで、言葉の余分を詮索することがあります。気になってしまうと延々考え、そこから全く違う妄想にふけることがあるのですが、そこから楽しい気持ちになることもあれば、もうこの世界滅ぶべしというくらい暗い気持ちになることもあります。昔は、延々と留まることなく考えていたのですが、さすがに性質を理解した今は「ま、お手頃に温泉を楽しめてラッキーだったってことで」と着地点を雑に作るようになりました。

 言葉はおそろしいもので、様々な解釈が出来てしまいます。
そう思うからこそ、人の言葉を耳にした時にたくさんのことを考えます。想像力があると言えばそれまでですが、多すぎる余分は心を惑わせます。

 ただ、余分な妄想はどんな時でも喜び悲しみ驚きを持って来てくれます。一人であったとしても。

 温泉の優待券ひとつで、こういうことを考えている人もいるのです。

 

 

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