平成の文学には〇〇派と言うものが存在しない。

平成文学には、文芸思潮と言うものが存在しない。

ええ!?嘘?本当!?

じゃあ「白樺派」とか「写実主義」とか「自然主義文学」とか「プロレタリア文学」とかあります?無いですよね。

普通はこの思想をもとにこの文学を表現するというのが古今東西の文学史なんですが。が、日本には1980年頃からこの「文学思想」というものが消えてただの大衆消費財、エンタメに落ちるんです。

普通これだけの超高齢化、失われた30年、家族崩壊、限界過疎、原発爆発、東日本大震災というものが起きたら「文学思想」というものが起きて一大ムーヴメントになるはずなんです。ですがね「エンタメ」要は面白いかどうかそれだけが尺度のすべてになると「思想」なんてあるはずが無いんですよ。売れれば正義ですから。でも出版市場のピークは1996年がピークなので商業的にも失敗してるのです。いい加減に辞めればいいのに。文壇界が思想を提示して日本再生文学派みたいなものを作ればよかったのです。でもそうはならなかった。

それどころかお笑い芸人に芥川賞を受賞させたりケータイ小説並みの品質の文学を芥川賞に受賞させるほどで残念ですが純文学は死んだのです。

ええ、第9回にしてもう結論を出しますよ。日本人は精神が壊れてしまったのです。国民レベルで精神が壊れた人たちに文学なんてのは表現不可能なんです。

文学は、死んだ!

神は死んでるどころか21世紀においてますますイスラム教を中心に重要性は増すでしょう。神は死んだのではなく哲学や文学が死んだのです。

これから『小説家になろう』の文章を紹介しますがみんな唖然としますよ。

「これが、書籍化……」、「ネタで売れればなんでもいいのか……」と。

本来ならば米国の衰退、中国の躍進と言う事を考えると文学も中華人民共和国の模倣が起きてもいいはずです。ですがね日本人と言うのはここ400年ぐらい、特に明治元年からの約150年間は日本人にとって中国とは見下す存在なんですよ。平成に生きた日本人というのはね、時計の針がね「天安門事件」の頃で止まってて2021年の中華人民共和国の姿が見えてないんです。

きっと私はこの中国を見下したことを文明的にも文化的にも後悔する時がやってくると思います。

平成文学というのはねアメリカも模倣にせずかといって中国も模倣にしない。たこつぼ文化として閉じて終わってしまった「失われた30年」なんだと思います。

「失われた30年」というのは経済的にだけじゃなく文化的にも「失われた30年」なんですよ。

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