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個人主義と景観

1.秩序 

 日本と西欧の景観における秩序の相違に関して、芦原義信の「街並みの美学」に記述がある。「温泉観光ホテル」(旅館)と「西洋式ホテル」の比較から、外部と内部秩序の境界線を見出すことができる。「温泉観光ホテル」の内部空間において、「玄関で靴をぬぐ。ロビー、エレベータをゆかたや丹前で行動する。玄関に鍵&各個室に鍵をかけない。大浴場で入浴する。」と述べ、外部と内部の境界線は旅館の建物の入口にあることが分かる。「西洋式ホテル」の内部空間においては、「個室で靴や服をぬぐ。個室に鍵をかける。」一方、個室外では、「入口玄関は24時間開放である。ロビーや廊下を正装かつ靴を履いて行動する。」と述べ、外部と内部の境界線はホテル内の個室の入口にあることが分かる。
 よって、外部空間の境界線を外的(公的)秩序の境界線とすると、外的秩序が保たれる限度は、日本は建物まで、西欧は個室までとなる。芦原はホテル内の個室の入口までは「街路の外的秩序の延長、公的な空間である。」と述べている。
 外部と内部の境界線、あるいは、外的秩序と内的秩序の境界線が公的空間と私的空間の境目が、日本の景観の無秩序さと西欧の景観の秩序さに関係しているのかもしれない。つまり、公的空間が西洋式ホテル内部の個室前ということは、ホテルの建物も公的空間内に存在していることになる。一方、公的空間と私的空間の境目が温泉観光ホテルの建物となる日本は、ホテルの建物は私的空間内に存在することになる。日本は私的空間内に公的空間であるはずの景観が存在することになる。その構造が日本の景観の無秩序となって外在化していると考えられる。

2.公と私の関係

 西欧の国は道路(線)に街路名が付いている。そして、その通りに番号が割り当てられ、住所として利用される。面としての土地より、公共性の高い道路に重きを置く。英国の景観に関しては自治体にガイドラインが設定されていて、個人での建物改築に認可が必要である。土地の所有に関して公有化(現在は私有化)され、土地は公共物とされ、土地の上の建物も公共物と認識されていると思われる。日本は道路ではなく、土地(面)に地区名があり、その面の周りに番号が割り振られ、住所として利用される。土地の所有に関して私有地が多く、建物の公共性の概念が希薄である。住所システムから、土地への認識の違い、特に土地の所有に関して公私の違いが垣間見られる。
 景観に関連する土地の問題で、東京都国立市では景観の財産権(並木道の連続性の破壊など)について初めて裁判が起きた。が、開発者の土地所有権の力が強く、法律上問題がなかったため、マンションの開発者側が勝訴した。景観法が制定され、自治体でも景観に関するガイドラインが制定されている。ただ、強制力がないため、土地所有者との力関係で景観が維持できるか今後の課題である。
 別の観点から公私の重要度の違いを述べる。英国と日本の違いとして、住所を記述する順番がある。英国では、名、姓、番地、街路名、地区名、都市名、国の順である一方、日本では、逆で、(国)、都道府県名、都市名、地区名、番地、姓、名の順である。住所の順番から見る限り、英国が私から公の順番であり、個人主義との関連も示唆される。一方、日本は公から私の順番であり、私より公が尊重される。果たして景観に関して実情はどうであろう。個人主義の観点で景観を分析してみる。

3.個人主義

 夏目漱石の著書「私の個人主義」において、「第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに附随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重んじなければならないという事。」と述べている。個人主義の定義に他人の個性を尊重、所有への義務、責任と日本の景観において欠けている部分が強調されているように思える。
 同じ島国である英国と日本の相違点を分析する。英国は大企業の社長には何十億円の報酬を与える能力主義であり、家族や趣味を大切にし、個の尊重をする個人主義が存在する。一方、日本の大企業の日本人社長は一般社員の報酬の差は英国ほどではなく、平等主義であり、個ではなく組織を尊重する。
 景観に関しては、真逆の構造になる。英国の景観はセットバックスペースの幅が一定かつ建物の高さも一定であるため、建物のスカイラインの連続性を保つ秩序があり、均質的な建物が並び、景観の公共度合いが高い。さらに、スカイラインや建物の外観を損ねる電柱などはすべて地中化されている。スカイラインの連続性を保つという一貫(秩序)性が保たれている。一方、日本の景観はセットバックスペースの幅、建物の高さは、建物の個々の所有者によって決定され、建物のスカイラインは不連続になり、多様な建物が存在する。公と私の関係において、英国人と日本人の特性と英国の景観と日本の景観において真逆の構造が存在する。能力主義、個人主義(よって契約書が必要になる)である「私(I)」が強い英国人が、土地に建てる建物に関しては公共的「公」を尊重する。平等主義、組織を尊重する(個人主義はみられない)「公」的秩序が強い日本人が、個人が所有する土地に建てる建物に関しては「私」的である。社会構造と景観で矛盾が生じている。なぜだろう?

4.日本文化の観点からの景観

 加藤周一著の「日本文化における時間と空間」では、「空間の秩序として街道すじのムラ(または町)の集落が道路に沿って長く続く。」と述べている。私的生活の秘密性から空間の境界の閉鎖性が生じ、家族内部で個人の願望や行動は尊重されない。空間の特徴として、「建増し」、建物の全体の形は初めから予想できない、部分から出発し、全体に至る。西欧の計画的に全体を設計後に部分が考えられる構造と真逆である。部分から全体への構造では「シンメトリーの忌避」は桂離宮の小さな空間の嗜好や非対称性に通じる。加藤は、「日本の空間の構造としては (1)部分が全体に優先し、細部は全体から独立である。(2)私が「今」居る場所への集中される「今」の強調、個人の注意は部分の改善に集中せざるを得ない。」と述べており、現在の日本の景観に通じる。さらに、「日本の「村」外において、その場の関係以外には規則がなく、自己中心主義は露骨に表出する。「今=ここ」の状況改善は環境を変えるか、自分自身の心を変えるかの二者択一になると思われる」と述べている。
 さらに、「日本人とは何か」においては、

日本思想は、実践的な倫理や政治思想、技術に結びついた美学があった。過去の日本人は造形的な感受性と趣味の鋭敏さを実証し、他方で工業技術の発展に納涼を示した。また、心理的段階で閉鎖的であり、思想的な段階ではものの考え方が普遍的・観念的ではない。現在は、わずかな便利さや金儲けのため、美的調和の喪失がおこり、美に対する洗練された鋭敏な感覚を持つ一方、野蛮で鈍感さも持つ絶対矛盾の自己同一が存在する。近代化は上から行われ、資本主義→民主主義→個人主義の概念が輸入されたが、「近代的市民精神」が必ずしも醸成されたわけではない。梅棹は「精神はそこにあった。輸入されたのは技術だけである。」とも述べている。小作制度がそのまま、家族制度に反映された。
 
と述べている。
 景観との関連としては、木の文化からの木造建築があり、また、地震が頻繁に起こることから、建物の建て替えが起こる。技術を基にした新しい建物が建ちやすい環境や文化が存在する。海上が日本人学生100名に行ったアンケートでは評価因子と歴史因子が相関しない結果になったが、現代的な景観も歴史的な景観も評価が高い結果となった。つまり、新旧両方を受け入れるのが日本人なのかもしれない。英国人とは異なる文化である。

5.江戸時代の景観

 鈴木理生は「江戸はこうして造られた」で、江戸建設について述べている。日本人ではじめて海を埋立、海上に進出し、臨海低地に意識的・継続的に都市を造営した。1590年代から最小限の工事で必要に応じて土地を造成追加した。
 現在も町割りや建築物が多く残っている地区として、茨城の真壁や秋田の角館がある。2つの町づくりには真壁氏が関わっている。真壁は道路に面して短冊型の町割りで構成され、格子状の道路に、間口がおよそ5間以上あり、通常の間口より広いため、隣家との間に隙間がある。奥行きは15間~25間(27m~45m)とされている。真壁町屋村絵図(塚本氏所蔵)には家が街路に沿って配置されている。建物の高さが一定なら、綺麗なスカイラインであったことが推測できる。
 また、角館は近世城下町として元和年間に芦名義勝によって町割りされた。現在も基本的な道路幅、配置、丁内区分は変わっていない。角館の町割絵図(1716~1736)や町人町の屋敷絵図(1736)には格子状の道路で、武家屋敷の「内町」と町人町の「外町」の屋敷割が一筆毎に持主と間口・奥行きが記載されている。武家屋敷のある「内町」の間口は10間~20間と広く、町人が住む「外町」の間口は3間~4間と真壁よりは狭く、隣家の隙間は狭かったと考えられる。「内町」の武家屋敷の奥行はおよそ33間と深く、「外町」の奥行は16間~17間と真壁と同等の深さと考えられる。この町割りから推察するに、セットバックスペースの存在は分からないが、道路と建物とに一定間隔が存在していたと考えられる。中野らの研究では、真壁の建物は平屋が多いとの報告もあり、真壁のスカイラインは連続性が保たれていた可能性が高い。また、享保20年(1736)限りで藩庁から屋根を萱葺に改めるように命ぜられたと言われている。このことから、角館も道路と建物とに一定間隔が存在し、建物の高さも一定になるよう指示をされている可能性が考えられる。
 江戸時代の日本の景観の資料としては、アメリカ人のエドワード・S・モースによるモースコレクションの写真集、イタリア人のフェリーチェ・ベアトの写真集がある。これらの写真から秩序がある空間的構造が見受けられる。建物の高さが一定、建物と道路の境界スペース(セットバックスペース)の幅が一定、建物スカイラインが連続線になっている。英国に見られる空間的構造がそこに存在していた。

6.景観への影響:日本と英国・ドイツにおける土地の所有権

 現在の景観と比較すると異なる空間構造となっているが、この相違はどこから来たのだろうか?2つ仮説がある。1つめは土地の所有制度が変わったという仮説、2つめは日本人の考え方、つまり、土地に関する公的な考えから私的な考えに変わったという仮説である。
 1つめの仮説、日本の土地の所有に関しては、大化の改新後、「公地公民制」により、土地は国家の所有物として制度化された。後の「班田収授制」では農民に土地を与える代わりに税を納める制度に変わり、江戸時代には土地は農民の所有が一部許される代わりに、土地の売買は禁止された。明治維新になり、所有権の考え方として、当時の民法にはフランスの民法が一部、参照されるが、土地所有権に関しては、ローマ法的所有権観念が参考にされ、領主が持っていた土地の所有権が私的に所有することが可能になった。さらに、地租改正が実施され、地券が発行されることにより、土地の私的所有が認められ、実質土地の売買が可能になった。ドイツに関しては、カエサルが、「ゲルマン人には私的土地所有権がない」と述べている。第2次大戦後に、建物と土地は共通不動産と考えられ、私的所有権は認められていると考えるが、1953年に土地収用を認め、1976年には市町村の先買い権を認めている。
 ケンブリッジ大学のDerek Clifford Nicholisによると、「1000年前のウィリアム1世から土地の所有は王家だけでした。ただ、19世紀の急激な工業化、急速な都市化は、人々に土地市場には何らかの公的な規制が必要という認識になり、19世紀半ば私的財産の強制買収による法律が作られた。特に英国の土地所有者は自分の土地を自分の思うままに使うことができず、何らかの公共的な規制の下にあるということを所有者自身が認識していた。」とされる。つまり、「所有するものではなく利用するものであり、その利用期間に応じた価値を売買する」(時間的)所有権を有する。英国における土地の最終的な所有権は王室(The Crown)にある。土地所有の形態としては、フリーホールド(freehold)とリースホールド(leasehold)があり、それぞれ日本の所有権と賃借権に相当する。その中で1975年土地公有化法が制定され、収用命令により土地を公有化し、開発を行い、その後、土地を民間に分譲する仕組みが出来たとされる。
 ドイツ、英国では土地は公的な所有物という認識があり、日本でも江戸時代まではそのような認識がなされたと考えられる。ただ、欧米諸国も自由権との関係から、土地の私的所有は認められている一方、土地収用を行える法律を制定し、公的な所有を一部認めている。日本は明治維新後、土地の私的所有権を認めるとともに、土地収用の法律を制定しないまま今日まで来ていることになる。
 日本の住居の所有については明確ではないが、恐らく、江戸時代までは、所有は許されていたが売買は禁止されていた可能性が高い。住居に関しては土地の公有化が行われてきたが私的に所有することも許容されていた可能性がある。よって、明治維新後の地租改正などの諸制度により、土地の私的所有が認められたこと、土地利用が利己的にならないための土地収用の制度が整備されていないことが原因でこのようなまちなみになった可能性がある。なぜ、強制的な土地収用の制度が制定できないのか原因を探る必要がある。
 2つ目の仮説については、土地の私的所有権の有無、もしくは、江戸時代までの封建制度(主従関係)の崩壊が日本人の考え方に影響を与えた可能性があるので検証が必要である。特に、土地の私的所有権が認められ、土地収用の制度がなく、まちなみが整っている国があれば、日本人に特有の文化となる可能性がある。








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