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センスが運命を変える

小山田圭吾さんや小林賢太郎さんの五輪辞任をきっかけに、テレビや新聞などの大手メディアから著名人のツイートやネットニュースに至るまで、偏った情報が発信されることがあるという事実とその弊害について知った人がたくさんいる。

今回はそういった問題について私の経験談と合わせて紹介する。

1. 被爆者たちとの無感情な出会い

私は長崎県長崎市で生まれた。小学校の図書室には原子爆弾により崩壊した市街地や、被爆者たちの痛ましい写真が資料として常設されており、一部の写真は展示もされていた。広島や長崎の当時の学校はみんなそうだったのだろうか。私は小学校に入ったばかりの6歳の時にそれらの写真を見た。

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手足が吹き飛んだ人、皮膚がケロイドになった人。そういった人々が瓦礫の街に呆然と立ち尽くし、ある人は亡骸になっていた。母を亡くした子、子を亡くした母もいただろう。

そういう写真を見て、涙を流したり恐怖を感じるのは、その写真から被爆者の苦痛や絶望を想像できる人だ。ケガや病気をした人はその経験から被爆者の苦痛をイメージできるだろう。自分の家や家族や住む街に愛着のある人はそれを失った人々の悲しみが想像できるだろう。しかし、6歳だった私は、被爆した人々の痛みを知るための材料、思いを寄せるためのかけらのようなものを持ち合わせていなかったと思う。私は子どもの頃、「口を閉じなさい」とよく注意を受けていた。その時私は口を開けて、無感情にそれらの写真を見つめていたかも知れない。

ちなみに私の祖母は原子爆弾の被爆者である。爆心地から遠く離れた場所で閃光を見て、山肌から岩が崩れ落ちるのを見た。63歳で亡くなった。

2. 学級文庫は「はだしのゲン」

その頃はキン肉マンが人気だった。プロレスブームの延長線上にキン肉マンがあり、私たちは友だちとプロレスごっこに興じた。「泣くまでデスマッチをやるばい!」そう言って泣かされたのは私だった。小山田圭吾さんがプロレスの技を友だちにかけたりするのは、あの頃の私たちの日常風景だった。私の家の壁にはアブドラ・ザ・ブッチャーのサイン色紙が飾ってあった。

教室には学級文庫の「はだしのゲン」があった。長崎だからか、教師の意図かはわからない。キン肉マンや「ときめきトゥナイト」を読んでいた私がこの漫画を読んだのは友だちからの勧めがあったからだろうか。

「優れた作品には二次創作(パロディ)が流行る」とは岡田斗司夫さんの言葉だか、「はだしのゲン」も時代を超えて今でも二次創作の対象となる面白い作品だ。悪魔超人も魔界も登場しないノンフィクション風の作品だが、絵やセリフに異様な迫力がありその物語に引き込まれた。

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上のような過激な描写もある。書いていて思い出したが、つのだじろうの「恐怖新聞」や梅図かずおの「おろち」なども読んでいたので残酷シーンにも耐性があったのだろう。何より、実際の被爆者の写真を見ていたのだから。

ここで重要なことは、子どもだった私がこの作品によって、何の抵抗も無く「自分の国は戦争でひどいことをしたんだな。それを止めるために仕方なく原子爆弾は落とされたんだな」という風に受け止めたことだった。

現代では、インターネットで少し調べれば、引用した上記のページで日本兵がやったとされる残虐行為は、実際には中国人が通州事件などでやっていたことだという説があることを知ることができる。

通州事件(つうしゅうじけん)とは、1937年(昭和12年)7月29日に中国の通州(現:北京市通州区)において冀東防共自治政府麾下の保安隊(中国人部隊)が、日本軍の通州守備隊・通州特務機関及び日本人居留民を襲撃・殺害した事件。通州守備隊は包囲下に置かれ、通州特務機関は壊滅し、200人以上におよぶ猟奇的な殺害、処刑が中国人部隊により行われた。通州虐殺事件とも呼ばれる。 Wikipedia

原子爆弾を広島と長崎の市街地に投下された理由についても諸説あるが、ここでは省略する。

3. 偏向教育

現在、自分の子どもが通う小学校の学級文庫として「はだしのゲン」が置いてあれば、私は学校に抗議すると思う。誤った歴史認識によって自分の国や先人たちの尊厳を傷つけるような漫画作品を、情報に対する判断力を持たない幼い子どもに読ませるのは問題だからだ。特定の歴史観や世界観に基づいて教育を施すことは、偏向教育と呼ばれる。この場合の「特定の歴史観」については「自虐史観」などの言葉で調べてもらえれば嬉しい。

教育基本法第十四条には、「良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない。」とされ、政治的教養の教育が推奨されているが、同条の第2項には、「法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。」と規定され、 教育の際には政治的中立を保つよう求められている。

この問題は、小山田圭吾さんの報道にも置き換えることができる。

20年以上前の雑誌から一部の情報を切り抜いて発信することで、小山田さんの尊厳は傷つけられたのだ。雑誌全文を読むことで、拡散された情報が偏向報道であることがわかる。だから全文を読んでほしい。全文を読んでどう思うかは個人の見解に任せるしかない。しかし、偏向報道だけで個人を評価したり意見を発信するのはフェアではない。それが私たちが繰り返し叫んでいることの主題ではないだろうか。

偏向教育から子どもたちを守ることと、偏向報道から個人の尊厳を守ることには共通点がある。それは一言に尽きる。与えられた情報を疑うことだ。

4. 映画「パッチギ!」

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邦画・洋画問わず映画が好きな私が観たたくさんの映画の中で、本作は特別な意味を持つ。

フォークソングが好きな高校生の主人公は、ある事件をきっかけに朝鮮学校の生徒たちと交流することになる。作品の中で在日朝鮮人たちは、日本による強制連行や、日本での貧しくつらい暮らしについて主人公に恨みをぶつける。マイノリティをテーマとした社会的な意欲作を、ヤンキーアクション映画としても青春音楽映画としても楽しめるエンターテイメント作品に仕上げており、そこそこ楽しめた。しかし、鑑賞後の私には違和感が残った。「日本の先人たちが本当にそんなにひどいことしたの?」という疑問符。

5. 日本人

私は財布を無くしたことがある。しかしその財布は中身がそのまま入った状態で手元に帰ってきた。拾い主は名前を告げずに去ったそうだ。また、ある時は五千円札で電車の切符を買って小銭のお釣りしか取らなかった。あとで気づいて駅に連絡した所、4枚の千円札が預けられていた。私自身もキャッシュカードを拾って届けたことがある。

中にはネコババする人もいるだろう。しかし、他の先進国と比較しても、こんなに人々が親切な国があるだろうか。あなたの半径数十メートルの人々、家族や友人、ご近所の人たちを思い浮かべてみてほしい。あなたの祖父母やその上の世代の方たちの生き方や一緒に過ごした時間を思い出してみてほしい。戦争のさなかとは言え、他の国の人たちを無理やり連れ帰った上でひどい重労働を押しつける。そんなひどいことをする人たちに見えるだろうか。これが私が抱いた素朴な疑問のひとつである。

6. じいちゃん

私の父方の祖父は本屋で働いていた。私に恐竜の絵本を買ってくれていた。習字が得意で、御中元や御歳暮の時期にはデパートでのし書きをしていた。本や筆が似合う温和で物静かな人で、べっ甲の亀が壁に飾ってあった。私はじいちゃんが好きだった。

じいちゃんはタロウという犬を飼っていて、私はじいちゃんとタロウと出かける散歩が好きだった。住宅地になる前の開発地区だったろうか。雑草が生い茂る荒野のような、何も無い道をゆっくりと歩いた。じいちゃんは何も話さなかったし、私も自由にしていたと思う。何かを指示されたり、説かれたりすることなく、ただただ無限に自由と景色が広がっていた。

じいちゃんは戦争でビルマ(現在のミャンマー)へ行ったそうだ。じいちゃんの体のあちこちに銃創があるのを幼い頃に見せてもらった記憶がある。優しく物静かなじいちゃんが戦争に行って、敵の銃に撃たれたのだ。じいちゃんも敵を殺したかも知れない。

両親は離婚し、じいちゃんとも疎遠になった。戦争の話をもっと聞きたかった。そして、国のために戦ってくれてありがとう。生きて帰ってくれてありがとう。そう伝えたかった。じいちゃんが戦死していたら私はこの世に存在しなかった。

7. 映画の意図

「パッチギ!」を観た私のもうひとつの疑問について。仮に映画で描かれたようなひどいことが本当にあったとして、戦後半世紀以上も経つ私たちの世代に、戦争やそれにまつわる強制連行などの反省を、なぜこの映画はこんなにも強烈に求めるのか。という事だった。

「私たちの国は過去にひどいことをした」と思ったとして、私たちは何をすれば良いのか。在日朝鮮人の所に行って「私たちのご先祖があなたたちのご先祖にしたことはひどいことでした」と土下座すれば良いのか。鳩山由紀夫さんのように。

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鳩山由紀夫さんは総理大臣だった2015年、日本統治時代に独立運動家などが収容されたソウル市内の西大門刑務所の跡地で“土下座”をし、日本の朝鮮半島統治に対して謝罪した。

「パッチギ!」を観たのは20代後半だったろうか。結婚して子どももいた。幼い頃「はだしのゲン」を読んだ時に抱かなかった疑問や違和感に気づけたのは、物語と自分の経験を照らし合わせる技術が備わったからだったのだろう。

かつての日本は本当にひどかったのか?

この映画が私たちに反省を促すのはなぜなのか?

その2つの、容易に受け入れ難い疑問にかられて、私はこの作品の監督である井筒和幸や「強制連行」についてインターネットで調べた。

この映画を作った意図は何なのか。それが知りたかった。勿論、戦時中のことも。この映画や「はだしのゲン」に描かれた残忍な大日本帝國軍とおだやかなじいちゃんがどうしても結びつかなかった。

8. 反日との出会い

映画「パッチギ!」に抱いた疑問について調べるうちに「反日」という言葉を知った。

日本に反対すること。また、日本や日本人に反感を持つこと。

ここではその経緯や情報について省略する。なぜなら、自ら疑問を感じた人間が能動的に情報を調べることと、与えられた情報を受動的に学ぶことには、理解の深度や質に差があると考えているからだ。興味があればご自身で調べると良いと思う。ミステリーを解くような面白さが味わえるかも知れない。

そうして「パッチギ!」が反日を目的として制作された映画であることを示唆する情報を得た私は、「反日」は映画以外でも様々な分野や手法で発信され、多くの場合、無自覚に私たちが消費していることを知った。

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例えば上の画像は、フジテレビ系のニュース番組「ノンストップ!」に浅田真央選手が出演した時のもの。国民的英雄を招いたスタジオには、彼女が試合で転倒した姿がパネルとして設置されていた。転倒したシーンも繰り返し本人に見せたと言う。これが大手メディアが19歳の少女にした仕打ちであるとは日本人として恥ずかしい。

9. なぜ?のアンテナ→センス

勿論、たくさんの抗議が番組に寄せられた。「なぜ、このような演出をしたのか?」そう疑問に思った視聴者が納得できる説明ができるだろうか。しかし、その「なぜ?」という違和感を抱かない人やタイミングがある。

当時、フジテレビでは韓国のキムヨナ選手をゴリ推し。また、日本フィギュアスケート連盟の名誉会長は、荘英介という在日帰化人だった。「なぜ?」のアンテナが正しく機能すれば、こう言った追加情報を収集し、どういった目的で番組が放送されたかというシナリオをある程度読み取ることが可能になる。そのアンテナ、つまり「センス」のようなものは、鍛えることができる。センスを磨く方法は、様々なニュースやコメントや作品に対して、次のような視点を持つことだと思う。

①情報の真偽

②強調・切り抜きされた情報は何か

③主観(こう思う・〜なはず)と客観的事実との切り分け

これらのことに注意すれば、情報発信や表現の意図も自ずと見えてくるのではないだろうか。

10. センスが運命を変える

センスを用いて情報を処理することの真逆にあるもの。それは勿論「情報を鵜呑みにする」ということだ。

「小山田圭吾さんが学生時代にひどい障害者差別をしていた」という切り抜きの偏向報道や見出しを見て、何の疑いも持たずに鵜呑みにする人たちがたくさんいて、情報の真偽が議論される間も無く瞬く間に拡散された。その一方で、20年以上前の古い記事を思い出したファンや「私の知る小山田圭吾はそんな人物ではない」という違和感を覚えた人たちがいたことは、不幸中の幸いであったし、彼自身の豊かな人間性と魅力を裏づけるものだろう。

しかし、なぜ情報の裏取りが徹底されないまま、彼の過去はセンセーショナルな見出しと共に社会に発信されたのだろう。事実と大きく異なる報道をした場合、大手メディアにしてもYouTuberにしても、名誉毀損に問われるのは大変な痛手であるし、大手の場合は社会的信用を失う。彼らは総じて真偽が議論される前に五輪辞任という結果を出すべく炎上を仕掛けたようにも見えなくないが、懐疑的過ぎるだろうか。

センスは人や社会の命運を握る。与えられた情報を疑い、その裏に隠された意図を知ることで、私たちの暮らしや社会のあり様は大きく変わる。与えられた情報を鵜呑みにするのは、誰かが仕込んだ隠された意図に無自覚に従わされることかも知れない。

一方で、情報を発信する際には、その目的に適った正しい手段や内容、質であるかを精査する必要がある。

アーティストが音楽雑誌に掲載されることは作品の売り上げを左右する大きなプロモーション活動だろう。多少事実と異なるインタビュー記事が掲載されても「あいつはめんどくさいからもう呼ばない」と思われることを恐れて、アーティストが出版社に抗議をしないケースもあったことは想像に難くない。その暗黙の上下関係の上で出版社があぐらをかくことも、アーティストが負担を強いられるような状況も改善されなければならないと思う。

私たちはその情報を鵜呑みにはしない。


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