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『グル・ナーナクは神の神聖な思想を広めており、イスラム教徒でさえも彼の教えに魅了されました。ナーナクの教えは、まるですべての宗教に受け入れられるかのように見えました。彼は、人が採用すべき道を明確に示している人だったのです。しばらくして、一部の宗教指導者たちは、すべてのムスリム(イスラム教徒)がナーナクの宗教(シーク教)に傾倒してしまうのではないかと心配し始めました。彼らは、アクバール王に苦情を申し立て、ナーナクに関する嘘の物語を作り、王がナーナクに対して影響を与えるようにしました。彼らは、アクバールにナーナクを処罰させようとしました。しかし、アクバールは、非常に揺るぎない心を持っており、すべての宗教を尊重していました。宗教の指導者たちがナーナクのことを訴えても、彼はそれを信じませんでした。アクバールは、ナーナクと直接話をして、状況を把握するべきだと考えました。しかし、ナーナクは物質界を支配する王たちに会いに来ることはありませんでした。彼はこう言いました。
「自分は信者のところにしか行きません。自分は神の国を移動する自由人であり、アクバール王に会いに行くことはありません。」
このような返事は、宗教指導者たちをさらに興奮させました。彼らは、ナーナクを困らせようと、さらにたくらみ、悪事を詮索していました。しかし、アクバールはナーナクに、翌日モスクで神を讃える礼拝があることを伝え、ナーナクがその礼拝に出席するようにと、再び言葉を送りました。そして、ナーナクを乗せる輿(こし)を送りました。しかし、ナーナクは輿で神の住まいに行くのは非常に失礼だと思い、歩いてモスクに向かいました。そして、他の人が来るよりもずっと早く着き、隅のほうで目立たないように座っていました。

宗教の指導者たちが祈りを唱え始めると、すぐにナーナクは大声で笑いました。そこに集まった人たちは皆、とても腹立たしく思いました。ナーナクの笑い声があまりに大きいので、人々は祈りの言葉も聞き取れないほどでした。しばらくして、アクバール王がお祈りを始めると、ナーナクはさらに大声で笑いました。そこに集まっていた他の人たちは皆、彼がアクバールにまで屈辱を与えていることに怒りを覚えました。その後、アクバール王がナーナクの場所まで行ってやんわりと尋ねました。
「なぜ、あなたは、お祈りの時に笑ったのですか?」
ナーナクはこう答えました。
「司祭は祈りを唱えていましたが、彼の頭の中は自分の家で、子供が熱を出していることでいっぱいだったのです。神父の心は、自分の家に向いていたのです。もし、心があることを言いながら、別の行動するならば、その人は宗教の指導者にはなれません。これでは何の役にも立たないのです。」
アクバールは司祭のもとに行き、尋ねました。
「本当は、息子さんのことを思ってお祈りしていたのではありませんか?」
司祭は、子供が高熱で苦しんでいるので、祈りの最中にも息子のことを考えていたのだと答えました。
さらにアクバールは自分が祈り始めた時も笑いが止まらないのはなぜかと尋ねました。 するとナナクはこう答えました。
「あなたは私がなぜ笑ったかを確実に知っているでしょう。あなたがここに来る前に、パンチャラの王から馬が何頭も送られてきました。そしてあなたは馬がとても気に入ったのです。あなたは馬が好きだから、ここで祈りながら、馬に思いを馳せていたのです。これは真実ではないですか?」
ナーナクがこの笑いについての答えた後、アクバール王はナーナクの宗教を広めるためのあらゆる支援を行いました。

私たちが行う祈りでは、祈りを始めるとすぐに蚊を打ちに行きます。昔のナーナクのような宗教指導者は集中する力を持っていたので、マハートマ(偉大な魂)と呼ばれるようになりました。今日、人間は人間として生きることさえ難しくなっています。科学の進歩により、人間は空を鳥のように飛び、水中を魚のように泳ぐことができるようになりましたが、残念ながら、地上で人間らしく生きることは学んでいないのです。人は生まれながらにして人間になるのではなく、その行動や振る舞いによって、自分が人間であることを示さなければならないのです。』

(『SUMMER SHOWERS IN BRINDAVAN 1978 Discourses of BHAGAVAN SRI SATHYA SAI BABA 』 〈C31. Brahman Is Ananda: Anando Brahman P237〜239〉)

参考 :        
 https://www.sssbpt.info/english/sum1978.htm        
    

『ある村に、1人の弁護士が住んでいました。彼は罪のない依頼人のために正義を守り、罪を犯した人々には慈悲を与える有能な弁護士として、高い名声と評判を得ていました。彼は尊神シヴァの帰依者でした。早朝の沐浴の後、1時間ほどジャパ(神の御名を繰り返し唱えること)をして過ごすのが彼の日課でした。彼はサンスクリットの5文字からなるマントラ、「オーム ナマ シヴァーヤ」を 1008 回唱えることを習慣としていました。 ある日、彼がマントラを唱えていた時のことです。依頼人が義理の娘に尋ねているのが聞こえました。 「すみません、先生は家にいらっしゃいますか? 今日は時間がおありでしょう か?」 義理の娘は答えました。 「義父は今、靴屋の方におりますので、どうかお待ちください。」 弁護士は困惑し、腹を立てました。急いで台所に行って義理の娘に尋ねました。 「お前はいったい何を言ったのだ?正気か?私がプージャー室で聖なるマントラを唱えていると知っていながら、よく靴屋の方にいるなどと言えたものだな?」 義理の娘は言 いました。 「ごめんなさい、お義父様。お義父様は間違いなくプージャー室にいらっしゃい ました。でも、心はどこにあったでしょう? 靴の修理屋さんが裁判の始まる前に靴を持って来てくれるだろうかと心配なさっていませんでしたか? 神の御名を唱えている間、修理屋さんが来たかどうか1度や2 度尋ねたりなさらなかったでしょうか?」 弁護士は何も言えませんでした。義理の娘が言ったことは真実だったからです。彼は自分が集中してはいなかったことを、そのような機知と英知をもって指摘してくれた義理の娘に感謝しました。 私たちは、機械的に神の御名や祈りの言葉を唱えるべきではありません。ジャパ(神の御名を唱えること)やナーマスマラナム(神の御名を唱えながら、その御姿を想い浮かべること)や祈りの中に、頭と心と魂を捧げるべきです。神聖な言葉を口にしながら何か他のことを考えるのでは霊性修行とは言えません。マントラは単に唇から発せられるのではなく、ハートから発せられねばなりません。マントラは、神に対する私たちの愛と感謝に満ちていなければならいのです。 - サティヤ・サイババ - 』
(Sai Ram News・58号)

愛と優しさをいっぱいありがとうございます!