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スンダー・アイアー氏がスワミを通じて体験した死の神秘

『突然バガヴァン・シュリ・サティヤ・サイババが夢に現れ、私を呼びました。私は顔を上げてバガヴァンを見ると、バガヴァンは私に手を差し出しました。ためらいながら差し出した私の手首をつかむと、バガヴァンは私を人気のない場所に連れて行きました。目の前には大きな焚き火があり、火が点いていました。炎は高く跳ね上がり(おそらく、サイ神の前では踊っているのではないかとさえ思いました)、バガヴァンはこう言いました。
「あなたはいつも私の性質を理解したかったのでしょう。さあ、聞きなさい。私の性質は純粋な愛で、あなたがここで見ている火のように、純粋で、力強く、神聖なものなのです。」
早朝の風が冷たかったのか、それともスワミの言葉のせいかはわかりませんが、私は身震いして、さらに強くスワミにしがみつきました。私は懇願するような口調でききました。
「主よ、あなたは火のようだとおっしゃいました。しかし、火は善悪の区別をしません。それはその方法で来るすべてのものを燃やします。もし、有神論者と無神論者が火の中に手を入れたら、当然、両方とも焼け焦げてしまうでしょう。」
私が言い終わると、スワミは私の目をじっと見つめました。そして、こう言いました。

「神の愛は、最終的にすべての人を焼き尽くします。しかし、どのように焼くかは、あなたが何であるかによって決まるのです。」

私はこの畏敬の念を抱かせるスピリチュアル・マスターを見上げ、なぜ彼はいつも謎めいた答えを選ぶのかと内心不思議に思いながら、「主よ、私にはわかりません。」と答えました。するとスワミは微笑みながら手を回転させ、一本の木片を作り出しました。長さ1フィート、厚さ1センチ足らずの小さな木片です。それを私に手渡すと、目の前にある炎から火をつけるように言われました。そうしたら、あっという間に燃え尽き、木片は小さな灰になって地面に落ちていた。スワミは足でその灰を撒き散らし、こう言われました。

「これが無神論者、皮肉屋、懐疑主義者です。彼らが燃えたとき、彼らは灰を残します。疑問の灰、エゴの灰、懐疑の灰です。」

そして、スワミは一歩下がって、もう一度手を回すと、今度は白い何かの大きな塊を物質化しました。それからスワミは私に、火の中に入れて、それに火をつけるように言いました。すると、何とそれは樟脳でした。数分後、樟脳は完成しました。スワミは言いました。
「樟脳の残りは何ですか? 」
私は樟脳が燃えたところを見下ろしました。何もありませんでした。スワミは目を輝かせて、こう言いました。

「私の子供よ、私が選んだ者たちは、この樟脳のように私の愛の炎で焼かれるのです。一度私に身を捧げれば、後には何も残らないし、存在した痕跡さえも残らない。そして、香水は手に入れましたか?彼らの人生は、その幸せと意志をもって私の奉仕に捧げられ、彼らの行動と思考は、世界が恩恵を受ける甘い香水となるのです。」

スワミは私の手首を放し、私の視界をぼやかす涙のベールを通して、彼が燃え盛る炎に向かって歩き、ゆっくりと、しかし堂々と火の中に入っていくのが見えました。その炎は、まさに彼そのものだったのです。』

(参考 :
https://sathyasaiwithstudents.blogspot.com/2018/09/sri-sathya-sai-divine-teacher-by-dr.html?m=1 )   


〈以前紹介した、スンダー・アイアー氏の衝撃的な死に関するスワミとの体験談動画から〉

『父は長年、プッタパルティのサティヤ・サイババのトラストの会計士の仕事を、スワミに捧げていました。私は父の死は想定していました。父の唯一の願いはヒンズー教徒のブラフミン(僧侶階級)としてプッタパルティで亡くなることでした。父は常々そう言っていました。父は母に『自分が死ぬ時は、耳元でガーヤトリー・マントラを唱えてほしい。』と言っていました。母も自分にもそうして欲しいと言いました。

1992年の夏、スワミは父に、『コダイカナルで過ごすので、あなたは家族と一緒に過ごしなさい。』と言いました。父は確か、4月の3日頃、姉のいるボパールで過ごしました。プッタパルティから3000マイル離れた場所なので、そこに行く前に、ブリンダーバンのアーシュラムでスワミに会い祝福をもらいました。父はプッタパルティで人が亡くなると、最期の儀式を行い、亡骸を火葬して面倒をみていました。これはヒンズー教徒のブラフミンとしての義務で、最期に面倒をみてくれる人がいないということが起きてはならないと、父は常に言っていました。父は本当に、プッタパルティで亡くなることを願っていました。

ところが、そんな父はボパールで心臓発作を起こしたのです。プッタパルティにいた私は電報を受け取り、ボパールに向かいました。私が父の元に駆けつけた時は、父は既に亡くなっていました。父はボパールという、馴染みのない場所で亡くなったのです。母は涙を流しながら私に、あなたのお父さんの望み通りにしましたと言いました。母の話では、父は頭の後ろのモニターを気にして振り返って見ていました。すると腎臓機能が不全となり、そして多臓器不全に陥り、小さな病院では手の施しようがありませんでした。その時、父は自分の耳を指差して傾け、「時が来た。」と言ったのです。そして、母は自分と父の姿勢を正し、父の耳元でガーヤトリー・マントラを、唱えたのです。唱え終わると、父は母の肩に崩れ落ちました。

私はボパールに到着してから2時間位は何も考えられませんでした。それから、ババに対して怒りがこみ上げて来ました。父の唯一の願いが叶えられなかったからのです。父は昼も夜もスワミに仕事を捧げていました。毎日、朝の3時と6時のお祈りも欠かせませんでした。たとえ寝るのが1時とか2時になったとしてもです。それなのに、どうしてプッタパルティじゃなくて、この場所で亡くならなくてはならないのか。スワミが全知全能であることは何度も見てきました。ババが知らないわけではないはずです。だからババに強い怒りを感じたのです。母は心配して私に、「スワミに電報打たないの?」ときいてきました。私は、「いいんだよ、スワミやアーシュラムには1週間後に知らせるよ。」と言いました。私は10日ほどしてから、スワミに父が亡くなったことだけを知らせました。私の怒りは頂点に達していたので、それ以上は話したくなかったのです。

それから何日か経ってから私はブリンダーバンのアーシュラムに戻り、スワミもコダイカナルから戻ったので、私はいつものスワミのダルシャンに参加しました。その時、私は最前列にいました。スワミが会場に現れると真っ直ぐに私の方へおいでになり、「私の足に触れなさい。」と言いました。私はババの御足に触れてから見上げると、ババは「心配ない、心配ない、私はここにいる。」と笑みを浮かべて言いました。さらにスワミは「コダイカナルであったことを誰かに聞きましたか?聞きましたか?」たずねました。私は怪訝に思い、「いいえ。」と答えました。そしたらババは、「そうですか、では待っていなさい。ダルシャンから戻ってきたら話してあげましょう。」と言って会場を歩いて行かれました。
もちろんスワミがダルシャンを終えるまで待てる訳がありません。後ろを振り返ると、コダイカナルに行った少年が私に近寄って来て、こう言いました。
「スンダー、お父様が亡くなられたんですね。ご愁傷様です。」
私は「ありがとう。」と言いました。
それから少年は日記を取り出して言いました。
「確かめたいことがあるんですが。お父様が亡くなられたのはいつですか?」
私は「4月20日だよ。」と言いました。
さらに少年は「何時に?」と尋ねてきました。
私は答えました。「何時ってどういう意味?医者からは、午後2時半から3時半の間に亡くなったと聞いているよ。」
すると少年は日記を私に見せて話し始めました。
「スンダー、この部分を見て。4月20日の午後スワミは僕たちと一緒におられました。15時半から16時位の間に、スワミは何秒か黙ってしまいました。それから、そこに居た人たちにこう訊きました。『この中に、スンダー・アイアーのお父さんを知っている人は何人いますか?スンダー・アイアーを知っている人は何人いますか?』」
私はプッタパルティに住んでいたので、生徒たちは知っていたようです。小学生たちもスンダー・アイアーを知っていると手を挙げたようです。それを見てスワミはこう言われたのです。

『ああ、みんな知っているのですね。スンダー・アイアーのお父さんが今、私の足元に到着しました。』

それを聞いて、私は驚愕しました。
その後、スワミがダルシャンから戻られて、私をインタビュールームに呼び、説明してくださいました。

「私が何と言ったかわかりましたか?あなたのお父さんは、プッタパルティのチトラバティ川で火葬されることを望んでいました。でもそれは肉体だけのことです。私はあなたのお父さんに、私の足を与えました。」

この言葉がどれほどの意味を持っているのか。つまり私たちは最高を願っていると思っていても、神にはもっと良い計画があるのです。そして、そのことを私たちは知りません。肉体は意味ありません。肉体はどこにあっても滅びるのですから。

「あなたのお父さんはチトラバティ川に行きたかった。しかし、それは肉体だけのこと。肉体はどこにでも行ってもいい。私は彼に、私の足を与えたのです。」

このスワミの言葉で私が衝撃を受けたのは、「彼が私の中に入って来ました。」という意味だったからで、さらにババはこう言いました。

「どうしてか?それは彼が私に奉仕したからです。私に奉仕したので、私の足にたどり着いたのです。」

これが、ババが奉仕というものに与えている重要性です。この話は私に、ババが何者かということついて究極的な答えを与えてくれているのです。』

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『最期の想いは。その人の一生の中で支配的だった思考によって決まります。もし死に際に神のことを想いたいのであれば、神を想い続けることによって、最期の時の準備をしなければなりません。生涯の実践の数々が、最期の一念を決めるのです。 - サティヤ・サイババ - 』

愛と優しさをいっぱいありがとうございます!