辛いとき
最近、noteをもう一度始めたことによってメモをする回数がとても増えた。
普段トイレなどで考えたことを忘れてしまうが、その場でメモをとるようになった。
これはとても良いことだと思う。
なぜなら、すぐ忘れてしまうから。
だから、メモを見返すと書き殴りたいことが多い。
構成などを皆無でただ書き殴りたい。
これは一種のストレス発散だと思う。
さて、今考えていることを書き殴った。
今回はメモにあった最新のこと。
辛いときどうしてるかについてである。
自分はその辛いことがどのくらい自分にとって重要なことなのかを考える。
それは、今、将来とかをよく考える。
とにかくよく考える。
そのときいつもなぜ辛いのかを考える。
しかし、そのときの答えはあまりない。
なぜなら、辛いときはとにかく辛いのだ。
なにが辛いとかは考えたくない。
考えないといけないのだろうけど、そんな体力はない。
できれば、辛いことなんか生きている上で考えたくない。
まぁ、このことについてはこのあたりにして。
よく考えた結果、自分にとってあまり重要でなかった場合、『自分は逃げ出す。』
しかし言い方を変えてカッコ良くすると、『解決策を作り新しい視点からその物事に挑戦する。』
ここでは挑戦と書いてあるが、別に挑戦などしたくなけゃしなきゃ良いと考えている。
挑戦とかは、もう少し大人になったら働くときにするもんなのかなと思う。
でも、したくなきゃしなくて良いと考えている。
自分は今、大学生なので社会のことについて、働くという本当の意味を理解していないからこそ書いているのかもしれない。
だが、自分はこの考え方がこれから変わっていくことがなかなか想像することができない。
そもそもこのような考え方をするようになったのは、高校時代からである。
高校2.3生の時の担任の先生が、『勇気ある撤退』という言葉を体育祭の時によく言っていた。
多分この時の意味は、体育祭なんかで怪我などしたり無理をするなという意味だと思う。
そこから自分は色々と考えて、『目の前の事柄がそこまで重要でなければ、やめてもいんじゃね。』という風になった。
そしてそこから発展して、真っ正面から挑戦しなくてもよくて、一度言ったことを訂正してまた違う角度からやったりしても良いんじゃないかという風になったんだと思う。
ここまで書いていて思ったことは、しっかりとした理論が自分の中にあるのではなく、なんとなくでやっているんだなと思った。
だから文章に一貫性みたいのが感じられないのだと思った。
なぜなんだろう。
考えよう。
今出した答えは、『理論にしてしまうとそれに従わないといけなくなり、自分の中で疲れてしまう』のだと考えた。
自分で思った。
めんどくさい人間だ。
応用していけば良いじゃないか。
でもできないのだ。
だから、応用させるためになんとなくでやっているのだと思う。
その場その場で、適用できるようにして逃げ出せるようにするために。
なんとなく、自分の中で見えたのでここで終わりにしたいと思う。1000字も越えたし。充分。
また書きたいときに書きたいと思います。
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