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対話するということ。

今日も釜石の友人の家に滞在中。何度かスコールのような雨が降ったので、出発しなくてもよかったなといつものように怠惰な自分を肯定する。

基本的に日本一周中は1人だ。誰かと話したり、ご飯を食べに行ったりする機会はあるけれども、対話をすることは以前よりもかなり減った。自分の言葉に対して頷くだけでなく、自身の意見を持って答えてくれる人。そんな人はありがたい。

1人でいる時間が長いと、どうしても自分の考えが凝り固まってしまう。数学の問題ではないのに、A=Bが全てである。そんな考えに陥ってしまうことがある。誰かとの対話はそんなA=BをA=CにもA=Dにもしてくれる。もしくはAが間違っていたことを教えてくれるかもしれない。自分がAと言い相手がBといえば、Cの可能性を新たに見つけることができる。

最近「死」について対話をすることがあった。

僕は人は死ぬと無になる。

1人は死んだ先に仲間が待っている。

もう1人は死んだら輪廻が転生して生まれ変わる。

と言った。

今まで誰かと死について考える機会がなかったから、多分こんなんなんだろうなと一方的に決めつけていた死への価値観が簡単に崩れた瞬間だった。

言葉はその人が信じたい価値観から生まれてくるものだと思っているから、意見に正解不正解はない。自分が考えもしなかった新しい意見を知れることに価値があるんだと、そう思う。

自分の中で答えを決めつけ、人に意見を押し付けてしまうことは勿体がない。可能性を自ら潰してしまうようなものだ。誰かと対話する時間を、できる存在を大切にしていきたいなと思う夜だった。






日本一周中に美味しいご飯を食べるお金に充てさせていただきます。