プチ手術

人生で初めて麻酔を打った。


医者に麻酔で気分が悪くなったことはあるかと聞かれ、よく分からなかったので微妙な間を空けたのち「ないです」と答えた。

すると医者はその微妙な間を察してか、今度は麻酔を打ったことはあるかと聞いてきた。

私はそれだ!と思い今回は確信を持って「ないです」と答えた。

医者はその返答に納得した様子だった。

なるべく会話のターンを減らしたいがために最も少ないターンで終わりそうな選択肢を選んでしまうのは自分の良くない癖だ。

あのまま私が麻酔で気分が悪くなるタイプの人間だったら訳の分からない事態になるところだったな、と思いながらベッドに横になった。


私がベッドで仰向けになっている間、医者と看護師が何やら準備をしに隣の部屋と私がいる部屋を行ったり来たりしている。

それどころか、なんかどさくさに紛れて違う科の医者とか他の看護師たちとかも出入りしている気がする。

私はそんな忙しない院内で何を一人寝転がっているんだ、と思ってしまい、面白くなってしまって密かに笑いをこらえていた。

患者がベッドで手術待ちしてる部屋使ってショートカットすんなよ、と腹が震えそうなのを必死に堪えて腹筋に力を込めた。


しばらくして、正しい医者と看護師の組み合わせが正しく戻って来た。

私はお腹の上で先程脱いだ片方の靴下を持ったまま、何もできずに天井を仰いでいた。

知らない天井だ、と思った。

見知らぬ、天井。


不意に、裸足になった左足の親指に冷たい感触。

医者が消毒をしていた。

それから、看護師が私の左脚の立てた膝と足首をがっちり押さえた。

やられる、と思った。

覚悟はしてきたつもりだ。

ここへ来たらこうなるだろうと思ってはいた。

しかし、いざとなると怖い。

さっきまで笑いで震えそうだった腹が、恐怖で震えそうになっている。

必死に腹に力を込めながら、靴下を握った右手を左手で包んだ。


看護師が私の脚を押さえつけたまま振り向き、なるべく優しい声で、「ごめんね」と言った。


くる、

くる………


…チクッと、どころではなかった。

先の尖ったスプーンで親指の爪の付け根をぶっ刺し、それからぐりぐりとほじられるような感覚がして、思わず右手は靴下を、左手はその右手を力強くぎゅっと握りしめる。

栗か、と思った。

立てた膝で直接見られなかったので分からないが、針が一点に刺さっているだけのはずなのに、やはりぐりぐりとえぐられているかのような痛みを感じる。

わしゃ栗か、と思った。

こちらからは医者の真面目そうな表情しか見えないが、絶対にほじっている。

わしの親指は秋の味覚か、と思った。


看護師が私の様子を見ながら「あ、あんまり痛くない?」と言ってきたが、流石に絶対痛いに決まっている。

足の親指の爪の付け根を栗スプーンでほじられてんだぞ。

痛いに決まっている。


麻酔を打ってすぐ、じゃあ爪切りますね、と言われた。

え?もう効いてんの?

まだ親指触れられてんの感じるんだけど??

別に痛覚が鈍くなるだけで触覚は消えないってこと???

人生初麻酔のため何も分からなかった。

何も分からないまま、医者が爪を切り始めた。

様子を見てみたい気もしたが、起き上がれないのでそれは叶わなかった。


「痛かったら言ってください」と看護師に言われた。

え?そんなことあんの?

麻酔打った側も効いてんのかはよく分かってねぇの??

全然効いてなかったら痛くなっちゃうよな~(笑)ぐらいのテンションでとりあえず痛み伴う作業開始しちゃってんの???

人生初麻酔のため何も分からなかったが、医者が結構なギャンブラーであることは分かった。


………


痛いです!


おそらく爪切り三手目ぐらいのタイミングで、痛みが走ったので危機を感じてすぐさま声を上げた。

すると医者も看護師も「あ、痛い?」となり、「じゃあ麻酔足しますね」と言われた。


え?

麻酔足すの??


もっぱつ栗スプーン???


ワンスアゲインマロンスプーンチャレンジ??

リアリー???


冷静に、施術の痛みと麻酔を打たれる痛みはどっこいどっこいなのではないかと思いたくなるほど、麻酔は痛い。

おい医者、お前の顔面のすぐ目の前にあるのは意思を持って動かせる足であることを忘れるなよ?

とつい思ってしまうほど、麻酔は痛い。


だというのに……ッ!


今度は爪の横側の皮膚に刺される感覚がした。

おい、痛ぇよ。

追加とはいえ、麻酔打った後の麻酔がこんだけ痛いってどういうことなんだよ。

最初の麻酔は何だったんだよ。


後から考えれば多少は痛みが軽減されていたような気もしたが、知らねぇそんなこと。

痛ぇよ普通に。ガチで。

次は怒りで腹が震えそうになっていた。


しかし、追加の麻酔が効いたのか、その後は特に痛みはなく爪を切り終えた。

で、なんかよく分からないうちに終わったっぽい。

医者が離れていき、看護師が濡れたコットンのようなものを患部に当てて押さえていた。

「見る?」と聞かれたので、「あ、はい…」と答えて体を起こした。

それが一番会話のターンが少なく済みそうだったからである。


で、見てみると。

親指の爪の片側が見事に切り落とされていた。

爪の先端の真ん中から、右下の角にかけて斜めに切られていた。

いわゆるアシンメトリーカットだ。

なのでわぁ、アシンメトリーカットですね、と言っておいた。

嘘である。

爪が無くなった部分が真っ赤になっており、看護師もそこをポンポンと拭いてくれていたので、どうなっているか詳しくは見られなかったが、特に何も言うことなく「あ…へへ……笑」とその場をやり過ごした。

爪が無くなるところを、目明し編以外で初めて見た。

ケジメをつけた気分だった。


看護師が草間彌生みたいになったコットンを片付け、ガーゼを持ってきた。

ガーゼの片面には軟膏がたっぷりと乗せられており、それを患部に当てるようにして親指を包む。

テープで固定して、包帯も巻いておくね、と上から包帯もくるくる巻かれた。

何だかサービスしてもらえたようで、私は商店街でコロッケを一つ頼んだら二つ入っていたお嬢ちゃんの気分ってこんな感じなのかな、と思った。

結果、「何だかでっかくなっちゃった(笑)」という適当なマギー審司ような呟きと共に、白くまんまるく怪我を主張するような親指が出来上がった。


握りしめてシワがついた靴下をそっと履き直し、いつの間にか戻って来ていた医者とマギー審司にお礼を言って、診察室を後にする。


会計で抗生物質と痛み止め(一瞬粉薬で出されそうになり慌てて錠剤に変えてもらった)を受け取り、病院のスリッパを脱いで、でっかくなっちゃった親指を履いてきたスニーカーにねじ込んで(立場逆転BoA)帰路についた。

その日は風呂に入らないようにと言われたので入らなかった。

ラッキー、と思うと同時に、やはり風呂の行程は省けるものなら省きたいと考えている自分がまだいたことに軽くショックを受けながら就寝した。




陥入爪(かんにゅうそう)というものである。

巻き爪みたいな感じなのだが、調べてみたら私の左足の親指はその陥入爪とやらに近い状態になっており、爪が横側の皮膚に食い込んでぐじゅぐじゅ(ぼかし表現)になっていたのだ。

しばらくしたら治るかと思って軟膏と絆創膏のみで対処していたが、1ヶ月弱経って爪が伸びてみても改善されなかったので、皮膚科に行ってこのようなプチ手術を受けたのである。

はぁ~怖かった。

原因は爪を短く切りすぎることが多いようで、それは私にも心当たりがあった。

視力が悪くて、足の爪を切る時、実はあんまよく見えてねぇのだ。

かと言って足の爪を切る時だけ眼鏡をかけるのもなんかキモいしめんどいなと思ってよく見えていないまま適当に切っていた。

だから感覚に頼って、つい切りすぎてしまうことがこれまでもよくあった。

でも、あの麻酔を差し込まれる瞬間、私は心から誓った。

これからはパソコンをいじる時と足の爪を切る時だけ眼鏡をかけるキモ女になろう…!

と。



今も包帯をしているが、数日したら爪の無い部分も乾いてきて、絆創膏だけで大丈夫になるらしい。

ほんとかなぁ。

治るといいなぁ。

と思っていたところで、もうすぐ満月の一部が欠ける部分月食が見られます、というニュースが流れ、やかましいわ、とテレビを消した。

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