ガラスのジェネレーション

佐野元春のガラスのジェネレーション、自分にとっての青春ソングなんだよね。


歌詞も結構好き


青春時代に心の支えになっていた曲は結構、生きる気力を与えてもらえるんだよね。

元曲


ライブ版


アイドルルネッサンス版

佐伯りき

“街に出ようぜBABY 二人の街にMAYBE 君の幻を守りたい”という所が特に好き。これについては自分は♀×♀に置き換えていますね。

女性同士の安息地って、象徴としての二人の街の世界にしかないのかなという気がしていた。

マジョリティの中でも、同じマイノリティの中でも安息地はなく

君の幻とはパーソナルスペース、その人の安心出来る場所な気がする。

ガラスのジェネレーションの考察ブログですが、まさに今の状況を言い当てているんですね。

革命や団結が失敗という苦い形で終わったという箇所が考えさせられる。

ブログが消えた時に備えて原文引用

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「ガラスのジェネレーション」は、1980年発表の佐野元春の2枚目のシングル。

ガラスのジェネレーション

さよならレボリューション

つまらない大人にはなりたくない

So one more kiss to me

ガラスのジェネレーション / 佐野元春_a0123695_1338095.jpg佐野元春が彗星のごとく音楽シーンに登場した80年代初頭、1969年生まれの私は中学生。「ガラスのジェネレーション」という言葉に、衝撃的なリアリティを感じた。

でも、すぐあとのフレーズ「さよならレボリューション」は目に入らなかった。1969年生まれの私には、全然リアリティがなく、意味がわからなかったのだ。

でも今よくよく聞き返してみると、「さよならレボリューション」とは、60年代に盛り上がり、そして70年のはじまりとともに挫折した、学生運動や革命の時代のことを言っているのかな、と思える。佐野元春は1956年生まれだから、あの運動が挫折した直後に青春を送ったはずだし。

もちろん、私が物心ついたときには、革命はあとかたもなかった。だから、その時代を想像してみるしかない。

理想主義の時代とも言われる60年代に吹き荒れたあの革命は、若者たちを一つの方向に向かって熱狂的に束ねる、大きな熱い塊、うねりだったのだろう。そしてそれに巻き込まれ、共に闘うことで、彼らはもっと大きな力、体制、に、立ち向かおうとした。

でも革命は、束ねる力の暴走によって暴力やテロへと急進化してしまい、そして同時に変わりゆく時代に吸い込まれ、失敗し、挫折した。あれほどまでに人を熱狂的に束ねていた熱い塊は、潮が引くように、あとかたもなく消えた。

人を束ねる力=ファシズム(右であれ左であれ)のエネルギーが、究極的には排他的で専制的・暴力的な方向に走ってしまうことと、社会が豊かになったことが一番の原因なんだろう。

それから10年もたった80年代には、人は一つの方向に向かっていっしょに何かを追い求めたり、何かを達成しようとしたりしようとはしなくなった。そういのは、めんどうくさく、かっこ悪いことになった。(80年代には、誰も革命の時代を語らなかった) それよりも、いかに自分を肥やすか、ということにみんな夢中になった。

でもその一方で、みんなと束ねられ、一つの熱い、大きな力となる、という熱狂が、失敗という苦い形で完全に失われたとき、人は突然ぽつんと放り出された自分を発見した。そして、自分の立ち位置を見失い、一人ぼっちの自分ののもろさや不確かさに戸惑い、おびえ、立ちすくんだ。

そうして、みんなで闘う時代は終わり、一人で闘う時代がやってきた。それを元春は「ガラスのジェネレーション、さよならレボリューション」と呼んだ、ということだったのかもしれない。そして彼は、革命なき時代に一人で闘おうとする若者たちの歌をたくさんつくった。

ガラスのようにもろい一方、壊れたときにはその鋭い破片で周りを傷つけてしまうかもしれない「ガラスのジェネレーション」は、「終わりの時代」を生きる我々そのものなのかもしれない。

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