声優とキャラクターの身体性:アイドリッシュ7「Road To infinity」を見ました。
2018年7月7日(土)8日(日)メットライフドーム(旧西武球場)
何故か「二次元」にはまらない人生を送ってきた私が突然「アイナナ」に目覚めたのは2017年の暮れのことだ。アニメ化に伴うプロモーションの一環として配信されていたコミックをきっかけにゲームを始め、そのストーリーやセリフの巧妙さ、現実との絶妙なメディアミックス展開に引き込まれて気付けば立派な「マネージャー」になった。妹にも布教し、見事成功した。アイドルオタク歴20年の私は、彼らを現実のアイドルと重ねて考えていた部分があったし、ライブで彼らの存在を体感したいと思うのはごくごく自然な流れだった。コンテンツのスタートから3年を超えて、個人的には最高のタイミングで1stライブが開催されることになり、死に物狂いでチケットを確保して出かけた。
私は「声優」という分野にも疎い。子供の頃は人並みにアニメ鑑賞を何よりも楽しみにしていたし、テレビに時々出てくる「声優さん」が誰もが知るキャラクターの声でセリフを披露したりするのを見て高揚したりもした。偶々周囲に声優の仕事をしている人も少なくないという環境にあったのだが、特別な想いはなかった(アニメファンの友人に少し自慢するような気持ちがあったのは認める)。だから大好きな「アイナナ」のキャラクターであっても声優は誰なのか、ましてやどんなルックスなのかということは殆ど気にせず、どちらかというと「声優」の存在に気づかないフリをし続けてきた。しかしライブを前にして、そうしているわけにもいかず現実に向き合う必要性が出てきた。数人はイベントの写真やGoogle検索でその姿を知った。誤解を恐れずに言えば、キャラクターとのギャップを感じることもあったし、ルックスでも人気を集めているような人についてはどこかホッとしたような思いもあった。そして当日を迎えた。
ステージに現れた「声優さん」達はキャラクターとほぼ同様の衣装に身を包み、身体性を伴う演技を以って各キャラクターとしてステージに立っていた。背格好もキャラクターに近く、全員「男性」であるということも含めて遠くから見たときの「リアルさ」は私の目に十分だった。また殆どの出演者はMCなどでのトーク中も度々キャラクターの演技をし続け、「アイナナ」の世界が現実に存在するかのように表現を行なっていた。もちろんそうでない出演者もあったし、全員は基本的に「演者」であるという性格を保ち続けていた。自己紹介で「〇〇役の〇〇です」と言う時は、誰もがキャラクターを演じている時とは違うナチュラルなトーンで話していたし、お互いを声優としての名前で呼び合う場面も多々あった。しかし所謂アドリブの状態でキャラクターの声色で話し、キャラクター名で呼び合い、ストーリーやキャラクターの性格、作中に登場するセリフを交えてのトークを行うなどの場面もあり、私は今目の前に「居る」彼らは誰なのかとしばしば混乱した。
ゲームのキャラクターは描かれた存在であり、その身体性は作品の中にのみ存在する。私たちはフィギュアやぬいぐるみなどを通じて彼らに「触れる」と言う行為を行うことができるが、それが果たして身体接触なのかとは考えさせられるところである。声優という職業は、そのキャラクターの声を演じると同時に、そのキャラクターと声を「共有」する存在であると私は考える。特に「アイドリッシュ7」について言えば、作品として産声をあげたと同時にキャラクターは固有の「声」を持っていたし、その声を発するキャストは今日まで交代もしていない。ライブでステージに現れた12人はまさしく、キャラクターの「声」の持ち主、生みの親なのである。その一人、十龍之介役の佐藤拓也氏は終演後、自身のブログに「僕たちはあくまでも声優です。彼らキャラクターとイコールじゃない。けれどせめてステージに立っている間はみんなの前で体を張っている間はみんなの思う彼らの姿を背負っていたい。」と綴った。声優がその身体でキャラクターを「背負」い、身体表現をも以ってキャラクターの存在を表現する。それはアニメやゲーム、MVなどの映像作品でファン達が目にしてきたキャラクターの姿を同じアングル、同じ表情、同じポーズやダンス、時にそれを超えたキャラクター「らしさ」を各演者が表現する、その1つ1つの演出と併せて真にキャラクターの身体をステージ上に存在させるものであったと思う。それと同時に、私は作中に登場するIDOLiSH7やTRIGGER、Re:valeのファン(モブキャラクターとして度々登場する)になることができたし、映像作品の中に登場したのと同じ景色の中で同じ行動をとることができた。スクリーンにはモブファンの姿も何度も映されたが、その度に「あれは私である」という強い想いがさらに作品の世界に引き込んだ。身体を伴うリアルさが、決して触れることのできないキャラクターの身体との時間と空間の共有を生み出し、見ている私により深い感動を与えたのである。
身体表現は本来「声優」の仕事ではない。しかし昨今はコンテンツの展開によって身体性をも声優が担わなければならない場面が多く、若い声優はそれを承知の上で業界に足を踏み入れていることとは思う。連日多くのライブ、イベントが開催され、声優達はリアルタイムでキャラクターで「居」続けることを求められる。場合によってそれは長時間のインプロ(即興劇)にもなり得る。それでも演技の中心は確実に「声」であり、キャラクターとして声を出し続けるその表現が声優の技なのである。そして声に引っ張られた先に身体が重なり合い、「見る」人と共に、キャラクターの身体が「そこにあること」を共有することこそが声優によるステージにおける身体性の根幹なのではないだろうか。私は公演中しばしばキャラクターの「姿」を探した。スクリーンにキャラクターが映っている時は、そちらばかりを見ようともした。私たちの目に見える形式でキャラクターはそこに存在せずとも「そこにある」ことを共有することでキャラクターを体感できるのだと理解したのは翌日の今なので、次回の開催を楽しみにしたい。