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子どもとの連弾 :Mas Que Nada


第1幕:母の学生時代

「もし聴いてみて、要らないなら、私が欲しいくらいだわ!」

母の学生時代の友達Nちゃんは、ある時こんなことを言ってそのレコードを手渡したらしい。
Sergio Mendes & Brasil ‘66というミュージシャンのレコード・アルバムだ。
ある世代には、青春の曲が数々入ったアルバムなのではないだろうか?
母の両親(つまり私の祖父母)は日本の演歌ばかり聴いていたというから、ブラジル音楽もボサノヴァもきっと当時の母は知らなかったに違いない。
私の想像では、母のことだから、きっとNちゃんにすごく感謝されるようなことをしたのだろう。Nちゃんは、そのお返しに大好きなミュージシャンのレコードをお礼に差し出すことになった。果たして、その価値は、Nちゃんほどには認識できていたかどうかわからない母ではあったのだが…。

<How many decades has it been…>

第2幕:私の高校時代

私がそのレコードを自宅の押し入れから偶然発見したのは、高校時代の夏休みだ。
「このレコード何?」と母に訊いたところ、母は今も付き合いのある学生時代のNちゃんの話を私にしてくれた。
その時分かったことは、母はこのレコードをあまり聴かなかったのではないか、ということだった。というのも、私は子ども時代にこのミュージシャンのレコードは聴いたことがなく、ミュージシャンの名前すらも初めて知ったくらいで、母から音楽の良さの話もほとんどなかったからだ。両親は音楽を聴くのが好きで、私は子ども時代に、いろいろなジャンルのレコードを聴いていたが、このレコードはジャケットすら見たことがなかった。

当時はCDとカセットテープで音楽を聴いていた頃だったが、久しぶりにレコードをかけると生々しい音楽が流れだした。
その時に衝撃を受けた曲がMas Que Nadaだ。
友達の影響でJazz Standardに夢中になっていた私は、Jazzと近い分野の音楽でもあるボサノヴァの曲:Agua De BeberやThe Girl from Ipanemaなどは聴いていたが、Mas Que Nadaは初めてだった。そして、Mas Que Nadaのコーラス担当をしている女性Vocalが、ソロで歌う部分の歌唱力の高さに驚愕した。
バンドを組んでいた私はその友達とよく Jazz Standardの曲を繰り返し聴きながら、英語を聴き取り、CDに付属する歌詞カードを見ながら、時には「この歌詞カード、リスニングが間違っている。綴りが違う」とか言いながら、音合わせしながら歌い合った。気に入った曲をお互いに紹介し、演奏する曲を決めていたので、この曲のカッコよさにすごく惹かれ、試しに何度か一人で歌ってみたのを覚えている。
問題は、歌詞が英語ではなかったことだ。ポルトガル語の発音は当然英語とは違うし、意味が分からない。どんな曲なのか音から想像するしかなく、歌う時も音をまねて歌うしかなかった。すごくカッコいい曲で演奏してみたいのに、どう頑張っても、うまく歌えない。その上、リズムもJAZZとは違う複雑なリズムで、当時の私は友達に「一緒に演奏してみない?」と提案することさえ断念せざるを得なかった。

<How many decades have passed…>

第3幕:2023年の試練、私と子どもとピアノと

いつしか私は結婚し、子どもを二人産んだ。
その上の子が少しピアノを弾けるようになってきたころ、教材のピアノの楽譜に連弾があり、今までに3曲ほど一緒に連弾を自宅での練習の合間に楽しんだことがある。
それでも、私が弾く「先生パート」は難しく、私自身が弾けるようになるまで、子どもが練習する10倍以上の時間と努力による練習が必要だった。生活の隙間時間にピアノに向かっては練習する時間を重ね、ようやく弾けるようになると、
「お母さん、弾けるようになったよ!一緒に弾こう!」
と言っては上の子を誘い出し、本来のピアノの宿題の練習はそっちのけで、狭いアップライトピアノにそれぞれ向かい合って連弾した。
しかし、コロナ禍や下の子の成長もあって、やらなければならないことに忙殺されるようになった私は、上の子との連弾を楽しむということをすっかり忘れてしまっていた。

2023年も8月に入ってもう半分以上も過ぎたが、私にとって今年は試練の年らしく、1月からだいたい毎月想定外の出来事に振り回され、変化に適応したころに新たな想定外な出来事が起こる、ということを繰り返してきている。子ども達が夏休みに入ると、私自身は疲れ果ててしまい、ルチーンや自分で決めた予定さえ時々忘れる事態に陥って、「ダメダメな自分」を自覚せざるを得なくなった。
そんな時、夏休み明けの秋にピアノの発表会に出場することになった上の子と、何気なく新しいピアノ教材のCDを聴きながら、楽譜を一緒に見ていた。
順番にCDを聴いていると、突然聴いたことのある曲の連弾が流れ始めた。

Mas Que Nadaだ。

今や子どもの音楽教室では、JAZZもLatin American Musicも教えるのか、と今まで連弾してきた曲などを振り返りながら、私の高校時代には時代錯誤だったとはいえ、自分にとっては懐かしいその曲を思い出した。
私が小学生だった頃、小学校の音楽の教科書に載ったPuff, the Magic Dragon(Peter, Paul and Mary)の曲をリコーダーで演奏すると知った時、両親はとても驚いていたが、私の驚きはそれに近い。

自分の青春時代の曲を、次世代が、新鮮な気持ちで初めて演奏する不思議。

上の子に Mas Que Nada がもともとどんな曲か話すと、聴きたがったので、Spotifyで 探して聴いた。
2006年にリリースされたSerigio Mendes の「timeless」というCDにも Mas Que Nadaのアレンジバージョンが入っているが、私が聴かせたかったのは、私が母のレコードで聴いた原曲の方だ。Spotifyで難なく探し出せた Mas Que Nadaは、デジタル機器に慣れている上の子が「歌詞」まで表示できるようにしてくれ、カラオケのようにどこの部分を歌っているのかリアルタイムでわかるような画面で聴いた。
すると、下の子がポルトガル語の歌を“音マネ”で歌い始めた。
上の子がメインパートのピアノ、私が伴奏パートのピアノで連弾し、下の子が歌を担当することになり、楽しみで今、日々練習に取り組んでいる。
事情があって毎月来て下さるピアノの調律師さんが、調律後、未完成の私たちの連弾を少し聴いて下さり、私たち3人の演奏が完成したら、自宅で初めてのお客さんになってくれるそうだ。おかげさまで、練習するモチベーションもできた。

それにしても、幼少期から弾いている私の相棒のピアノは裏切らない。
練習した分だけ、自分の願う音を奏でてくれる。
Mas Que Nadaは、時々叫びたくなるような私の気持ちそのものだ。
力強く楽しいボサノヴァのリズムと共に、言葉では決して表現しきれないネガティヴな感情そのものを見事に消し去ってくれる。そして、演奏するポジティヴな快感を強烈に思い出させる。

そして、この曲を演奏することこそが、
私にとっての「昇華」なんだと、ある時、気づいた。

意識的に自分と対峙して、「感情をありのままに受け入れ」、フラッシュバックする記憶の数々とその時々の感情に合う音楽を次々と聴き続け、整理するのにかなり時間がかかった。でもそれさえ済めば、成熟した防衛機制の「ユーモア」や「昇華」でネガティブな感情に対処できる。

それにしても、
かつて演奏したかった曲とこんなタイミングで邂逅を果たし、
こんな形で演奏する機会を得られるとは…

練習していると、沸き立つような血液が全身をくまなく巡り行くのをまざまざと感じ、生きていることを実感する
趣味とはいえ、私の人生に音楽があって良かった。

これからこの名曲は、大人になった子ども達にとって、どんな思い出として引き継がれていくのだろうか?
<How many more decades will pass from now…>



※マシュ・ケ・ナダ(Mas Que Nada)をご存じない方へ、解説記事のリンクを貼っておきます。
Mas Que Nadaの音楽動画が二つあります。
上の動画は、2006年にリリースされたCDアルバム「timeless」に入っているアレンジされたMas Que Nada、
下の動画は、画質は悪いのですが、私が高校時代に繰り返し聴いたSergio Mendes & Brasil ‘66のレコードの音楽の音そのままのMas Que Nadaです。

マシュ・ケ・ナダ Mas Que Nada 歌詞の意味 和訳 セルジオ・メンデス (worldfolksong.com)



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