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「たりない!」

2021/06/03
ため息をつくような感覚でポツポツとメモしていたものを慌ててまとめて投稿。(不毛な議論を聴いちゃうと感想が変わっちゃうかもしれないので)

『明日のたりないふたり』を観た感想を書きます。

⚠️アーカイブは8日23:59までです。中身の話を少し書きますが、情報は入れずにライブを観た方が良いです。

(※追記:13日(日)まで配信延長らしいです!)

まず、わざわざ書かないとうっかり忘れそうだから書いておきますが、およそ2時間ぶっ続けで漫才をやる、というそもそもガワとして凄いことをやっているライブであるということ。メモ。


これは良くないことかもしれないし、色んな面でコンプライアンスに引っかかる発言になるかもしれませんが、最後が無観客で良かったと思いました。仰向けになって二人が荒げた呼吸を整えている、その息づかいを聴いている時間が流れている時に、特に。
こんなにあらゆる要素を排して「対話」にフォーカスしたお笑いで、「漫才のあり方」にまで思いを馳せてしまう、美しい構造。2人だけが立つステージも、1人とだけ向かい合う客席も。

あと、これも怪我の功名というか、観客がいなかったからこそ漫才の中に「観客」が登場できたようにも思う。

狭いすき間の方が流れ込む水の圧は高くなるし、小さい穴から出る方が水は勢いよく飛び出す。狭い「たりなさ」を共有できる二人の姿に自己投影を繰り返すファン(自分も含めて)は、良くも悪くも内面化が激しくて、圧倒的に心の距離感が近い(ように見える)。

そんな“ヘビーたりふたファン”の言葉を、客席から代弁する。「さよなら」で受け取った宣言を信じて、新しい一歩を、「人間力のマシンガン」を期待してしまう観客。

ただ結局、そんなファンの思いが山里さんに一度槍を捨てさせてしまう。漫才を完走した後に振り返れば完全なBAD ENDでした。それでも、池の神が上がってくるまでは「ついに新たな一歩だな」なんて思ってしまっていた。観客も(というか自分も)ちゃんとたりなかった。あんなに輝いてる「たりなさ」を、「捨て去らないといけないもの」と思い込んでしまった。社会の規範や常識の息苦しさにもがいていたのに、「もう結婚したんだから」なんてつまらない社会の規範や常識でものを語っていたのだと気づかされる。

「武器」でいいじゃん。磨いてきた竹槍なら、心のお守りになるモデルガンなら別に、アップデート出来ない自分も抱えたまんまでいいんじゃないか?12年経ってたどり着く「たりない」の結末としての説得力。

でも、単に「たりなくていいじゃん」ということでもない。武器は探さないとならないから。



漫才の途中、末席とはいえ自分の名前をクレジットしていただいている番組の名前が出た。「バナナサンド」。「もっとたりないふたり」を、実家のリビングで観ていた頃には想像もつかないことです。

南キャン回は担当ではなかったが、会議の動向は逐一気にしてしまった。
バナナサンドのリモート会議、自分はとにかく“解像度”を上げなければ!という強迫観念から、担当回以外の会議も画面をオフってこっそり話を聞いているのですが、南海キャンディーズ回の準備が進むたびに「さよならたりないふたり」で捨てた武器をもう一度握り直させるような構成になっている気がして、ほんの少しだけ不安で鼻がヒクヒクとしていた。多分一番やりやすいし、求められてるし、絶対に確実に面白い、けど、あまりにも「誰もが思い描く最強の山里さん」過ぎて、絶対に面白いのでそれは番組としては正解なのだけど、ご本人の新しい一歩の妨げにもなるまいか、と。

で、そんなもん杞憂も杞憂で馬鹿らしくて。
めちゃくちゃ面白かったんですよ。
面白かった、やっぱり。めちゃ面白い。

無名の芸人の卵からの暴言アンケートに啖呵を切って、水ぶっかけられて、スライム被って。
めちゃくちゃ面白かった。

圧倒的な笑いの量で、たぶんきっとこれで良かったんだよな〜と山里さんにも思わされたし、そこを今回もう一度若林さんが肯定されていたのを観て、同じように安心をした。あれ面白かったよなー。良かったんだよな。笑ったんですよ。




今回で気付いたのは「たりない」って、これ以上ないハングリーな言葉であるということ。

「たりない」って結構シンプルな言葉だけど、マジでこれまでは「不足している」という言葉の意味しか見えていなかったように思う。

一つの卒業を迎えた「さよならたりないふたり」も、「新しいたりない(=不足)」を肯定した漫才であって、「たりない」という言葉そのものの意味(不足)は変わってなかった。

でも今回で気付かされる。「たりない」って言ってる人って、めちゃくちゃ前のめりだった。まだたりない、まだたりない、って、「欠損」「不足」じゃなくて「渇望」じゃん。

たりない「から、もっとよこせ、まだやれる」。

無限の胃袋を持つフードファイターのごとく、終わらない空腹を抱えたまま、涙で濡らしたホットドッグを詰め込む。皿を持ってこい!とまた苦しそうに手をあげる。「たりない」からやる。こういうライブとか色んな新しいことを。「まだこんなもんじゃねぇ」って目をしてる。


『アベンジャーズ/エンドゲーム』の2回目を観ると、死を覚悟したトニーの冒頭の独白が映画の結末と円環することで、開始数分で号泣してしまうという現象が起きるのですが、同じように、この『明日のたりないふたり』冒頭の“いきなり感謝を述べちゃうボケ”で紡がれる言葉の数々が、ボケに聞こえなくなってしまって参る。やはり2回目を観るには、最低1日置かないとだった。

「山ちゃん、12年間ありがとうございました」

「これから別々の道になるけど、お互い頑張ろうね、ほんとにね」

「たりないふたりのチームに出会えて、人生の宝物です」

ラストを踏まえた上で、ビー玉みたいな目も、AIスピーカーみたいなトーンも映らない活字にこうしてして落とし込んでみると、本当に真っ直ぐで…いや、これはかなり野暮なことをしてしまっているかも。

ヒルナンデスの食レポで1年スベり続けている話をした時の
「配信だぞ!具体的な番組名とかは…」
「分かんなくなっちゃう、山ちゃんにしか向けてないから」
という言葉からは、背景にうっすらとブランコやシーソーが見え始めた。

「見えてきたんだよ公園がぁ!」といったところでしょうか。
じゃあ、本当に公園だったのかもしれない。


公園で続きをしちゃうくらい、「たりない!」のだ。

「よこせ!」と。これからも言っていく。
渇望。


ドラマの中で目鼻立ちの整った美人の言う、カメラ目線の「大好き」に「俺のことが!?」とドギマギしたことはないが、あの「頼んだよ」はズルかったですよね。ズルい。「明日の」の中に、こちら側を一気に引っくるめた意味を置いて終わっていった。R-指定が「俺ら」を「お前ら」と歌って終わっていった。

「たりないふたり」が「たりない」まま、真っ白に燃え尽きるまで自意識や規範と戦った壮大なドキュメントとして終わっていった。

この「脂の乗った人生の12年」を捧げた社会実験のレポートは、もっと50年とか、60年とか下の世代にまで届いてほしい。「飲み会の断り方」から始まったこの企画は、それくらい普遍的なところまで昇華されたように思う。

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オードリーの武道館でも、「さよなら」でも泣きはしなかった。漫才を見て泣いたのは、初めてだったのかもしれない。

都合のいいヘリコプターは来ないので、今日もスニーカー履いて、仕事に行く。まだまだ仕事をする。まだできる。やれる。「たりない!」

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