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『2月4日』

元日に彼氏と別れてから2ヶ月。

行事にまったく無頓着な私と、小さな記念日も大事にしたい彼との溝は、いつしか谷となり、去年のクリスマスをもってしてくっきりと渓谷が完成してしまった。

「もうコンビニでよくない?」

24日の17時だったか。ショートケーキならまだしも、少しの色気のない小さなシュークリームの詰まった袋を買い物カゴに入れた私を見て、彼は何を思っていたのだろうか。その帰り道、家に着くよりも前に、彼は別れを切り出した。

去年の節分も一人だったな。私、2月に恋人がいた時期ってあったのだろうか。

小さな豆のパック、恵方巻をビニール袋に下げて帰宅する。豆の袋には、雑に鬼の面が接着されていた。両耳にはゴムを通す穴があいていて、口角を上げた口元は半月状に切り抜かれている。

ふとタンスの上の写真立てが目についた。彼とのツーショット写真が伏せられている。薄く積もったほこりを避けながら、そっとつまんで写真立てを起こし、鬼の面を立てかけた。

「鬼は外ー」

ビニールパックの豆を、そのままお面に向かって投げた。シュッと、紙とビニールの擦れる安い音が響く。

今年の恵方は「東北東」らしい。恵方巻き片手に、コンパスのアプリを持って、体をねじり角度を探る。奇しくも私は、またタンスの方を向いて座った。

「いただきます」

願いを込めて、無言で食べる。食べ終わるまでは、喋ってはいけない。

ほら叶わないじゃん、と言いたいだけの私は、今年初めて公式のルールにのっとって恵方巻を食べることにした。素敵な人と出会えますように。明日とかに。さぁほらどうぞ、やってみろ。

鬼の面と目が合う。白目の中の黒目部分がアーチ状になった鬼の顔は、不気味な笑顔をこちらに向けていた。退治されるクセに、笑っている。情けない、チープな笑顔だ。

鬼の面の横から写真の端が顔をのぞかせる。彼の隣でおどけてソフトクリームを掲げている写真の私の笑顔を見て、少しだけ羨ましくなった。

もう少し、もう少し一緒にいたら、彼は私のことを許せていたのだろうか。些細な感受性の違いも笑えるぐらいの仲に昇華したのだろうか。静まった部屋で、久々に聞く冷蔵庫の稼働音が、私の孤独感を強めていく。

3分ぐらい経っただろうか。いつまで私は恵方巻を食べているのか。6分を超え、持つ手が疲れてきた辺りで気付く。恵方巻が減っていない。はじめと同じ長さのまま、私の鼻先に鎮座している。

食べても食べても、恵方巻の長さが変わらない。

たまごと、キュウリと、カニカマを咀嚼し、延々と胃の中に流し込む。噛む。噛んで、口に運んでいるのに、ずっと恵方巻は同じ長さ、同じ姿勢でそこにあった。

あぁ、気持ち悪い、やめやめ。そう思って立ち上がろうと、した。けれど私は、私の身体はただひたすらに恵方巻を食べ続ける。やめようとしているのに、その思考が脊髄にタッチする前に、帰って行くような。なんで、私はここに座り続けている?

終わらない恵方巻と裏腹に、窓から射す夕日はあっという間に沈んでいき、いつし部屋は真っ暗になっていた。口から離せばいいと、頭では分かっているのに、私の口先はひたすらに恵方巻をむさぼり続ける。相変わらず、鬼の面は笑ってこっちをみていた。

限界が来た、足の痛み。ただでさえ慣れない正座を、かれこれ1時間は続けている。足先のしびれがふくらはぎへと広がっていき、膝もフローリングの冷たさと硬さに拒絶され続けている。横になりたい。横になりたい。

次に襲って来たのは満腹だった。たまごと、キュウリと、カニカマが、私の食道から小腸までをビッチリと埋め尽くしたような、そんな不快感。シャクシャクと一定のリズムで動き続ける口の端を、静かな嗚咽とともに流れた涙が通り過ぎる。度を越した満腹感ほど、不愉快な状態はない。それでも私の身体は、終わらない恵方巻を体内に差し込み続ける。

すきま風が、ぱたんと鬼の面をタンスの上から落とす。裏返しにひるがえって、滑るように私のそばに落ちた鬼の面。灰色のシルエットが、口の穴だけを開けて、私を笑って見上げている。

せきも、絶叫も、頭に選択肢が浮かぶだけで、私の身体には届かない。

胃液と米粒が、口の中の空気を全て外に押し返す。ビチャビチャと、涙や唾液の混ざった水が、胸元を濡らし続ける。

かすむ目が、再びタンスの上の写真にピントを合わせる。写真の中の彼は、どんな顔をしていただろうか。目も鼻も髪ものっぺりと、一面灰色に塗りつぶされて、真っ赤な口だけを開いて、私と向かい合っていた。



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