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お茶を七碗

最近、はじめてネスプレッソなるものを体験した。
ぽいっと小さいカプセルを機械にいれて、
ぐっと押すだけでエスプレッソがのめる。
熱くておいしい。
おいしいね!
便利なものだ!
いたく感心したので
その勢いのまま騒いで、
おばあちゃんかよ。と苦笑いされた。

さて。
とおばあちゃんは思う。
とてもおいしかったのだけれど、
この「おいしい」を伝えるのはむずかしい。
うまい!という味覚の針は
明らかに大きく、するどく振れたけれど、
あっさりとした短い時間で感じた
この「おいしい」には
修飾語をごてごて重ねる隙がない。
洗練された味や華やかな香りより、
手間のかからなさや時間の早さへの驚きの方が
伝えたいことになってしまう。
こんなにおいしいのにねぇ。

おばあちゃんなので(根にもっている)、
手間と時間で作った行間をたっぷり使って
ただ「おいしい」と伝えている文章はいくつか思いついて、
『七碗茶歌』と呼ばれているものなんかがそうだなぁと思う。
盧仝という中国は唐の時代のお茶を愛した人の手紙の一節で、
本来ならば皇帝に献上されてからしか出回らない新茶を
いち早く分けてもらったことへの謝意と
このツテを逃すものかという情熱が込められた長い長い文の中に、
このお茶を飲んだ感想を書いた部分があって、
大雑把に解釈すると、
一杯目、喉の渇きがおさまり
二杯目、孤独の苦しみから解放されるようなこころもち
三杯目、ちょっと詩でも書いてみようかなぁと
    頭を捻ってみたけれど、
    どこかで読んだことのあるようなことしか思いつかなくて
    (このお茶の良さにはとても及ばないなぁ)
四杯目、軽く汗が出て、
    汗と一緒に日頃の不平不満が体から流れ出ていくよう
五杯目、もう肌どころか骨までキレイになっている
六杯目、仙人の世界に片足を突っ込んだような気分
七杯目、飲むことができなくて、
    両脇の下を清らかな風が流れてゆく
    仙人が住むという蓬莱山はどこにあるのか。
    この風に運ばれてそこに帰りたい。
‥‥しかし、このお茶を摘む農民の苦労を飲む方はわかっているのだろうか
と話は続く。
前段でお茶は早朝に届いたと書かれていて、
盧仝という人は自分で
「わたしは宝石のように清らかな水で茶を淹れて飲む者です」
という意味を込めて玉川子という号を名乗るような人なので、
届いたその足でいそいそと水を汲みに行き、
暖かな風が吹く時間までほぼ一日をかけてただただ茶を味わっているこの詩は
喫茶の真髄とか、茶の歴史の中で最も影響力のある詩とか言われていて、
この詩の刻まれた茶器がたくさん出回っている。
何百年も語り継がれてきても褪せない
「おいしい」が確かにあって、
読んでいると
ねぇねぇ、どんな味なのよ?
と思ってしまうのだもの。
すごいもんだなぁと思う。

でもさぁ。
飲みたい時に、飲みたい分だけ、
さっと飲めるおいしさをさっと伝える表現だって、あると思うのよ。
「うまっ!」ってゆう一瞬を、
「うまそっ!」って受け取ってもらえる。
そういう「おいしい」の伝えかたはできないもんかなぁと
ぼんやり考えながら
なんとなく毎日を過ごしております。

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