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裸の履歴書vol.6~つまずき

 地元に帰って約1ヶ月の準備期間を経て、いよいよ競輪選手としてのデビューを迎える。デビュー戦を迎えるにあたって師匠から言われたことは、「力(実力)を出し切ってこい」と「先輩の背中を流せ」「帰りの電車では先輩の分の弁当とビールを買え」この3つであった。特にレース以外の2つを強調された氣がする。

 デビューの地は千葉県松戸競輪場。当時、「南関のドル箱」と謂われたお客が入る競輪場(他には川崎、静岡)だ。一緒にライン(線)を組んでくれるのは、北海道(函館)の先輩。青森と函館で並ぶ。故に「青函ライン」と呼ぶ。新人はスタートで前を取らされる。青板(残り3周)で相手の先行選手が上昇開始、蓋をしにくる。北海道の先輩の「突っ張れよ~!」の声に反応して少々ダッシュ。相手の先行選手、一旦車を緩める。このときまだ残り2周半。続いてようやく赤板(残り2周)、再度相手が上昇。相手は、私を後方へ下げさせレースの残り1周半を告げる打鐘(ジャンと読む)が鳴る。一本棒(1列棒状)。ペースを上げているつもりが、感覚的には周回が少々早くなった程度。つまりはスピードには乗っていない。私の脚力は2回のダッシュで大部分削られていたのだ。鐘が鳴りやむのが残り1周の合図。よく「緊張で打鐘が聴こえない」と表現されるが、私は聴こえた。緊張しているが聴こえた。そうこうしているうちに最終B(バック)を通過。まだ一応先頭。2C(センター)、明らかな失速。俗にいう「タレる」といやつだ。4コーナー、北海道の先輩「頑張れ~!」と発しながら交わし(抜き)にくる。北海道の先輩1着。私…3着。減速しながらバンクをまわる。その間の怒声?罵声?がとにかく怖かった。自転車を取りにきてくれた先輩の言

 「野次られるうちが花だ」

 そうだ。買ってくれてるから怒るんだ!そんな当たり前の有難いことに氣づくのはもっと後のことであった。

 デビュー戦成績…3(予)7(準)9(選)
 (※優勝戦進出ならず…)

 競走得点…71.0点

 初めての諸先輩方との宿舎生活(「先輩の背中を流す」という指令を敢行したところ、耳目を集める結果となった…)と、レースとで緊張が抜けることのない4日間であったため、ハッキリと判る疲労感であった。帰郷の新幹線に乗り込む際に、師匠のいいつけを思いだしキオスクで弁当とビール購入を試みようとしていたところ、先輩が既に買い込んでいた。あわてて紙幣を渡そうとするが、頑として受け付けない先輩。

「鞄持ちしてもらったんだから、出すのが当たり前」

(※鞄持ちとは…最終日、早い(前座)レースに乗った者が、遅い(主に優勝戦)レースに乗った者が無事に走り終えるのを見守り、自転車を受け取り、バラしと帰り支度を手伝うこと)

 競輪は持ち点(競走得点)がものをいうジャンルである。一旦いい流れ(波と表現したほうが解りやすいだろうか)に乗ったら、しばらくはそのいい流れに乗れる。デビューするまでは持ち点0、デビュー戦を走り終えると持ち点がつく。次回出走場所で、その持ち点を基に出走番組(レースのメンバー構成)が構成される。興行は売れなきゃ意味を為さない。競輪も興行だ。格下と格上が闘う構図が基本。日を追うごとに実力伯仲した番組構成となっていく。格上同士は最終日まで当たらない。つまりは持ち点が低いということは自分が格下(点数下位)。格上(点数上位)と勝負して勝ち上がらなければならないということだ。2戦目の地は北海道函館競輪場。競走得点71.0点から初日の番組が構成される。格下の私は各上と相対する。

 デビュー2戦目成績…3(予)7(準)9(選)

 デビュー戦とまったくの同一着。数奇な、いわくありげな…つまずきからスタートの競輪人生であった。 

 ものわかりがよくて、察して、目立ちたがりで、真面目で、ダサいことが嫌いで、うっすら支配している空気が嫌いで、冷静で、ひねくれもので、エネルギーの方向が違っていて、つまずいて、

 つまりは、我思う…「可愛げのない競輪選手1年生」だった。

続く

1975年7月17日 青森市生まれ


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