ふと思い返して…

いきなりグラブルなどとは関係無い記事を…
ある人のブログ記事を読んだら若い頃を懐かしむ内容を書いていたので
自分も来月で1周忌となる自殺してしまった親友の話をこの機会に自分の近年の振り返りと共に書こうと思い立ち筆を取った次第。

かなり長文になりますが、時間のある方はお付き合い頂ければと。


思えば今年で満33歳(今32歳)、月並みだが長いようで短い人生を送って来た。
基本、人生において一番華やかなはずの20代は自分にとっては酷く薄汚れていて、見るに耐えないものだった。
何とか大学には進んだものの、頑固で偏屈な性格が祟って高校でも友達は多くなかった僕は、当然のように大学でも友達が出来なかった。

講義で一緒になったグループとつるんでみたり、サークル仲間とつるんでみたり、ゼミのグループとつるんでみたり(まあゼミはほぼサークル仲間と同じ面子だったが)
どれもイマイチ馴染めなかった、相手が悪かった場合ももちろんあるけど、今思えばただ自分がセンシティブなだけだった時も少なくなかった。
まるで恋愛ゲームのように、一つの選択肢が大きく人生や仲間を変えるとして、自分はいくつかハズレの選択肢を選んでいたように思う。

そんな大学環境に置かれ、中学からネット中毒と化していた自分は更にどんどんネットの沼に、そして退廃的な日々に陥ってしまうのは必然で、
後悔はしていないが、この大学の時期にPeercastやROのエミュ鯖、パソリロに出会ってしまった事は、退廃の速度を早めるのに十二分だった。
そんな鬱屈とした日々を更に加速させるように最後につるんでいたグループの中の一人と仲違いしてしまい。僕は孤独になった。
正確にはそのグループの中の特に仲の良かった奴とはたまに会ったりしていたが、孤独感は拭えなかった。

気付けば大学へ行くのも億劫になり、次第に講義にも出なくなってしまった。
結局留年した。親に迷惑を掛けているという自覚はもちろんあったが、僕は余りに精神的に脆かった。
ズルズルと時間を浪費してそれでも何とか卒業したが、蓋を開けると1.5年、みんなより遅れていた。
そんな生き遅れた僕と傷をお互い舐め合っていたのが、後に自殺する事になるT君だった。

T君とは中学からの友達で、頑固で偏屈な僕と長く付き合いがある珍しい友達だった。T君自身も変わり者だったが、「友達」という付き合い方の価値観や距離感は非常に近く。お互い余りストレス無く友達で居られた。
大学在学中も地元に帰った時に遊んではいたが、これだけで拭える程当時の僕の孤独感は小さくなかった。


T君は家が貧乏な事もあって、高校卒業と同時に就職していた。
給料の半分を家に入れるという親孝行な彼だったが、「どうせ家に入れるお金だから」と母親から勝手に給料袋から金を抜かれたり、家庭内は殺伐としていた。


そんなある日、彼は父親の友人の会社に強制的に入社させられた。今勤めている会社を辞めてまで行けと言われたらしい。
常識的には考えにくいが、前述の通り殺伐とした家庭環境がこれを真実だと物語っていた。父親はDVが酷く、逆らえなかった。
父親の友人の会社は酷かった。車の部品工場だったが、どこから連れて来たのか分からない日本語が出来ない中国人や、普通に入れ墨やピアスを入れた人達のオンパレードだったそうだ。
当たり前のように工場内でタバコも吹かしていたとか。
しかし、不幸中の幸いで、この劣悪な工場はリーマンショックによって倒産。T君は半年足らずでこの地獄から開放された。
結局その後、前の会社に再就職出来たものの出戻りという事もあり、給料は低く、等級も上がりづらい立ち位置になってしまった。

それから1年ほど経った時、T君の親が離婚、家庭は崩壊して市営住宅での一人暮らしが始まった。
本来、一人身では中々借りられないのだが、近くに住む祖母が「一緒に住んでいる」という体で借りれたようだ。

その頃僕はというと、派遣に登録したりで大学に行った癖にT君と大して変わらない底辺人生を歩んでいた。
友達の少ない僕は、T君と定期的に遊んでいた。
底辺同士話していて気楽だった、社会に不満があるがどうしていいかわからず、自身の現状に自業自得を孕んでいるが故に偉そうな事も言えず。
変に自分の分量を弁えているせいかこの底辺環境からの脱却も諦めていた似た者同士だった。
彼はよく「俺は学が無いから」と言っていた。高校も農業高校で、学が無い事をずっとコンプレックスに感じていたようだった。
「kzmは大学に行けただけで(大学受験に合格しただけで)凄い」とも言っていた。
それは違うぞT君、大学は行ってからが大事なんだ。前述したように決して自慢出来ない大学生活を送っていた僕は、いつもこの言葉に対して返す言葉が無かった。

そうこうしている内に年月は経ち、僕は派遣先での仕事振りが認められ、大きな企業に正社員として就職出来た。
T君は変わらず再就職した会社で頑張っていた。
まるで自分の事のようにT君は僕の正社員採用を喜んでくれていた。お祝いもしてくれた。
そして更に1年程経ち。出張等も増えてきた僕は忙しい社会人である事を見せびらかすようにT君に話していた。
出張で忙しい、上司が嫌なやつでさ、この前研修があって…
大半が仕事の愚痴で、建設的とは程遠い会話をしていたと思う。
正直、やっと歳相応の話が出来る自分が嬉しくて仕方なかった。「よくある普通の一般的なアラサーの男の話」が出来る自分が、ようやく社会から認められたような気がした。

T君も仕事の愚痴が大半で、お互い聞きあっていた。正に傷の舐め合いだった。
二人とも、こんな会話をする事が非建設的で良くないと感じつつも止められない感じだった。もちろん愚痴ばかりじゃなく趣味の話もしていたので、会ってご飯を食べて話す、たまにお店に買い物に出かけるのこのルーティンは本当に楽しかった。

だが、そんな非建設的でも楽しい日々にも、とうとう終わりが来てしまう。

T君が自殺する1週間程前。
T君と会ってご飯を食べて、いつも通り何の気ない会話をした。
この頃になると、仕事の愚痴も言い尽くしたのか「頑張って等級上げるんだ」とか、前向きな会話が多かった。
出戻り再就職とは言え、T君の真摯な勤務態度が会社に認められて、上がりづらいなりにも等級は少しずつ上がっていたようだった。
今思えばこの日のT君は会う前から酒を呑んでいて上機嫌だった。
僕は会社に熱意が認められた事が嬉しかったんだろうなと思っていたが、もしかしたらこのどうしようもない人生からのリタイアを喜んでいたのかも知れない。
後に聞いたところによると、自殺や退職する前の人は、苦悩から開放されるからなのかとても上機嫌で明るくなるそうだ。

この日も食後にT君を家まで送り帰った。これが最後にT君と会った日なった。

T君が自殺する前日。僕は東京出張から岡山に戻っていた。
機内で食べれなかった夕飯をどうするか悩み、一人で食べるのも味気ないと思ってT君に連絡しようとしたが、上に書いたように1週間前に飯を食ったばかり。何だか小っ恥ずかしくなってその日は一人でラーメンを食べて家に帰った。
今思えば、この時一緒に夕飯を食べていたら、T君は死ななかったかも知れない。
「恋愛ゲームのように選択肢を一つ変えていたら違う人生(ルート)になっていたかも知れない」
大学生活で感じた感情が、またここで思い知る事になるとは。
どうやら僕はまた、ハズレの選択肢を選んでしまったようだ。

T君の自殺当日、僕は出張の代休を取り歯医者に行っていた。
T君と僕の共通の友人から1本の電話が掛かってきた。
既に歯医者に来ており、丁度順番が来た僕は電話に出ず先に歯の治療をした。
治療が終わった後、LINEを見ると友人から「必ず掛け直して来い」という内容が送られていた。
何だろうと思い、頭の中で「こんな展開、ドラマなら誰か死んだ時とかだろうな」と冗談めかしながら折り返しの電話を掛けた。

案の定、内容はT君が死んだというものだった。享年30歳だった。

人間、こういう時最初は受け入れられないのか、涙も出なければ決まった感情も沸かないもので、悲しいというより「何で?」「どうやって?」という思いが頭を占めていた。
T君は酒が好きだった。だから最初は所謂ゲロが喉に詰まって、という事故死のパターンを想像していた。
だが後に葬式で会ったT君のお兄さんから聞いたところ、酔っていたかは分からないが、首吊りで死んでいたそうだ。
事故死なら諦めもついたが、自殺。おまけに最後に会った友人は恐らく僕のようで。
自分を責めても仕方ないと分かっていても、責めない事がT君への不義理になる気がして、しばらくは感情の整理がつかなかった。
もしかしたら日々の仕事の愚痴も、結果として大きな企業に就職出来た僕の自慢、あてつけと取られていたのかも知れないと。T君が自身の人生と比較して絶望してしまったのではないかと。自分を責める要素を見つけてはそんな事は無いはずと言い聞かせていた。

T君の葬式は細々と行われた。T君の家族と僕と友人。あとは高校の友達2人と会社の上司が1人が呼ばれていた。
僕と友人は葬式の前にT君の棺に入れる写真を選ぶべく、T君の写真をスマホから探した。
しかし、何度もT君と友人の3人で一緒に旅行に行っていたにも関わらず、T君が写った写真は1枚も入っていなかった。
この時気付いたが、T君はこちらの写真は撮っても、自身が撮られるのは恥ずかしがって撮らせてくれなかった。
スマホを変える時にデータ移行していなかったせいかも知れないが、それでもやはり数える程しかなかったと思う
結局友人の方のスマホに入っていたギリギリ画面の端に写っていた画像を現像してもらい、持って行った。
T君の父親は来ていなかった。
聞いていた式場は地域でも最安値を謳っている葬儀会社のものだった。
実際、式場は狭く、棺と花と参列者が入ればもういっぱいだった。
最後までこんなぞんざいな扱いをされてしまうT君が不憫で仕方なかった。死んでしまった悲しみと同じくらいこの感情で涙が止まらなかった。
彼は変わり者ではあったが、誠実で正義感の強い人だった。
本当に困った時は遠慮なく言ってくれればお金だって貸すと言っていた。友達思いの奴だった。そんな彼の晩節がこれとは、神様は居ないのかと。
T君の母と祖母は泣いていたが、残りの家族は泣いていなかった。

火葬場までは行かず、棺を霊柩車に入れた後、僕と友人は式場を後にした。

その後、しばらくこのショックを引きずったが、周りから励まされて何とかこうして生きている。その節お世話になった人には頭が上がりません。

以上で、少しの自分の独白とT君との顛末を終わります。
本当は細かく書けばもっと書ける事はあるけど、部外者が見ても蛇足になりそうなのでこれにて。

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