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素顔のピクセルが作られた背景を考える

蓮の空のこと好き好きクラブのみなさん、初めまして。ゆらぎ仮説と申します。

今回は2024/8/8(木)に配信されたWith×meetsで新たになった『素顔のピクセル』が作られた背景について、歌詞と共に考えていこうと思います。

こういった考察は初めてであり、他の方のように深い話をできる自信は皆無に等しいのですが、私自身この『素顔のピクセル』が大好きというのと、今回明らかになった情報を元に抱いた感想を備忘録的に残しておきたいというのもあり、不慣れながら色々と綴ってみようと思います。拙い部分が多いと思いますが、ご了承ください。

明らかになったこと

元々伝統曲であるということは明言されていましたが、その具体的な背景については明かされていませんでした。

しかし、2024/8/8(木)のWith×meetsで主に以下のことが新たに分かりました。

  • 十数年前に作曲された

  • 作曲と作詞は別の部員が担当

  • 作詞者はカメラが趣味の生徒(部活の様子を撮影し、思い出として記録)

  • 作曲者が突然、とある事情で蓮ノ空を去ることに

  • 作詞者がその生徒に、大量の写真と感謝、惜別の思いを込めた手紙を送った

  • その手紙の文章を元にして、ユニット相手の生徒が曲をつけて完成した

素敵な話ですね。恐らく携帯電話も普及していたであろう時代にわざわざ惜別の手紙を送ったという程ですから、相当仲が良かったのでしょう。

デジタルカメラの普及は2000年代以降に急速に拡大したそうですから、そういった点とも辻褄が合います。

さて、以上の点から、『素顔のピクセル』の歌詞について考えていきます。

Aメロ

ジグソーパズルの ほんの一欠片
指で囲ってみた 君と見てる空

Aメロ1

この歌詞の語り手を仮にA、もう一人をBとすると、AはBと空を眺めている様です。指で囲って"みた"とありますから、普段はそんなことしないのでしょう。

では、そんな日常の中の一瞬を切り取りたくなったのはなぜでしょうか?

恐らくこの時、またはその前に、蓮ノ空から離れるという旨をBから聞いたのではないかなと私は考えました。今までは何気なく感じていた日常も、別れを意識し始めると急に愛おしく、大切に思えるものです。それが「日常」というジグゾーパズルのほんの一欠片であっても。

もう時間だね 夕焼け小焼け 藍染の帳に 三日月模様
帰ろうか カラスも鳴いた 明日天気になれ

Aメロ1

時は夕方。空を見ていた二人も帰る時間ですが、Aは「明日天気になれ」と願っています。夕焼けということは天気は晴れのはずですが、次の日も晴れを願っています。なぜでしょうか?

恐らく、天気はAとBの関係・状況を表すメタファーなのではないかと私は考えました。つまり、日が沈みゆく夕方を別れの近づく二人の関係に喩えているのです。そこで願うのが「晴れ」すなわち二人の再開をこそ、この時のAは願ったのではないでしょうか。カラスは不吉の前兆とも言われますから、二人の別れを予告している様にも思えます。

Bメロ

Ah こんなふうに笑えたの Ah 何も知らず生きてたよ
点と点がくっついてくたびに 解像度上がって鮮明だ

Bメロ1

この曲は全体を通してカメラがメタファーとして用いられており、それは先ほど挙げた「作詞者はカメラが趣味」という点を踏まえると間違いないと思われます。

さて、"Ah こんな風に笑えたの"の部分ですが、これには次の二つの可能性があると思います。一つは「Bとの日々を注意深く大切にするようになったAが、新たなBの一面に気づいた」。もう一つは、「Bと一緒に映る写真を以前よりも撮る様になったAが、Bといる時楽しそうにしている自分に気がついた」。どれが正解、不正解かは分かりませんが、両方正解なのではないかというのが自分の考えです。

二人の時間が以前より濃密になった、そしてお互いのことをより理解できるようになった。それを"解像度が上がった"と表現しているように思えます。

サビ1

楽しいも大切も大好きも そこにある一瞬を永遠にしよう

サビ1

普通に考えれば、もうすぐ別れるBとの写真を撮ることで、過ぎゆく日常の一瞬一瞬を永遠に残るものにしようということなのでしょう。もちろんそれは十分に説得力のある推論なのですが、その場合"楽しいも大切も大好きも" を "永遠にする"の目的語とするには少し違和感が残ります。写真が永遠にできるのはあくまでも「記録」であり、「感情」ではありません。

「いやいや、その写真を見ることでその時の感情を思い出せるんだから、この表現は正しいよ。」

という意見もごもっともだと思いますが、私の抱いた違和感に共感していただける方はもう少しお付き合いいただけると幸いです。(最後の方に説明します。)

何ひとつ無駄じゃない ワンピクセルのかけがえのない今

サビ1

これ、すごくないですか?

自分の人生の、例えほんの短い期間でも、「何ひとつ無駄じゃない」と言えるその青春が自分にはあまりにも眩しく見えました。(私の人生は無駄ばっかりだったので笑)

その短い期間の、ほんの一瞬の時間をピクセルに喩えてるのもまた上手いですよね。ピクセルとはデジタル画像の最小単位のことですから、二人の過ごした時間を「写真」に、その一瞬一瞬を「ピクセル」にそれぞれ喩えているのでしょう。そのワンピクセルをかけがえがないと言い切ってしまうのですから、二人の関係性の深さが伺えます。また、そう考えるとAメロの「ジグソーパズル」とは、ここの「ピクセル」の別表現なのではないかとも思います。

背を伸ばし凛とした横顔 照れ隠しそっぽ向いた顔も
こぼさずに切り取ってくよ この眼はいつも君を追いかけてる
ピース!

サビ1

”背を伸ばし凛とした横顔” ”照れ隠しそっぽ向いた顔”

…ん?なんだかとある人物の顔が浮かんできますね。

我らが乙宗梢センパイ

きっと素顔のピクセルを作詞・作曲した二人は、花帆ちゃんと梢センパイみたいな関係の二人だったのかなあと想像が膨らみます。ちなみに私は梢センパイ推しです。梢センパイマジ天使。

Aメロ2

フィルター外した 世界の一欠片
知りたくなったんだ 君の見たい空

Aメロ2

一番のAメロと対句?のようになっています。

カメラを暗喩する形を踏襲するなら、フィルターはレンズフィルターのことを指すのでしょうが、これを二人の関係に翻訳すると何になるのでしょうか?

ここからはあくまで私の妄想ですが、先述したように「空」を「関係」の暗喩として捉えるなら、"君の見たい空"とはすなわち「Bが願う関係」ということになります。そう考えると、フィルターはAとBの心の間にある障害に置き換えられるのではないかと考えました。心の間にある壁を取り払ってより近しい関係になることで、Bが望む関係を知りたくなった(そしてその関係になった)というのがこの部分の言いたいことなのではないでしょうか。それは親友のような関係なのかもしれないし、はたまた…?

また、”空”を「状況」に置き換え、"君の見たい空"を「Bが願う将来の夢や希望」と翻訳することもできそうですが、前後の接続がいまいち悪い気もします。もちろん、単に「君と空を見てる」関係から「君と空を見たい」関係になったことを表しているだけかもしれませんが。

Bメロ2

Ah こんな未来待ってたの Ah 眩しすぎるどうしよう
アングルをちょっと変えただけ 想像してたより鮮烈だ

Bメロ2

”アングルをちょっと変えただけ”は、「日常の切り取り方を変えただけ」と解釈できそうです。つまり、スクールアイドルクラブのメンバーとしてのA,B両名に物理的な変化はないが、相対的な関係やお互いの「見方」が変わったということだと考えました。

より近しい関係になった二人の日常はあまりにも眩しく、素晴らしい日々だったのでしょう。そう遠くないBとの別れがそれを生んだのだというのは皮肉ですし、聴いていて切ない気持ちになります。

サビ2

嬉しいも最高もサンキューも そこにある感情ごと写すよ
何ひとつ逃さない じっと見つめて捉えてみせるから

サビ2

1サビでも述べたことですが、やはりここでも「写真を撮っている」と解釈するには違和感があります。一つは”感情ごと写す”という点。表情が写っているのなら感情は読み取れそうなものですし、わざわざ”感情ごと”と表現する意味がないように思えます。もう一つは”じっと見つめて捉えてみせるから”という部分。これがもしカメラで撮るという行為を表しているなら、”見つめる”よりも「構える」とかの方が適切な気がします。

教科書で隠した泣き顔 窓際でまどろむ寝顔も
こぼさずに切り取ってくよ ほらこっち向いて君は何が見える?

サビ2

”教科書で隠した泣き顔”…Bはどうして泣いているのでしょうか。蓮ノ空にもっといたいから?それともやはりAと離れるのが寂しいから?どちらにせよ、泣き顔をカメラに納めるのはサイコパスの所業にすら思えます。想像してみてください。泣いている友人を前に、声をかけるでもなくカメラを構えてシャッターを切る人の姿を。ここまでの良い感じな歌詞が台無しです。

”ほらこっち向いて君は何が見える?”ともありますが、ここもやはり「カメラを構えている」と考えると不自然です。何が見えるも何も、カメラを覗いている人の姿しかBの目には映らないでしょう。

Cメロ

手を振る逆光の彼方 急ぎ足の街が
寂しがり屋にする 夜は長い
夢に逢うまでは

Cメロ

”手を振る”とありますから、Bとの別れの場面でしょうか。”急ぎ足の街”というのは、体感よりもずっと早くBとの別れの時間が迫ることを表しているのか、それともBと別れた後に人混みの中をとぼとぼ歩くAの目には街を行き交う人々が急ぎ足に写ったということなのか。どちらにせよ、Aの気持ちはとても良く分かる気がします。友人と遊んだ後一人になった帰り道、この世界には自分しかいないんじゃないかと錯覚してしまう程の凄寥感を覚えることがあります。それが長い時間を共に過ごした部活のメンバーなら、この比ではないでしょう。

”夢に逢うまでは”とありますが、ここでの格助詞「に」は、動詞「会う」の動作対象を表す用法ではなく、場所を表す用法なのではないかと思います。「ここ座る」などがその例ですね。つまり夢「で」逢うということです。英語だとUntil I see her in my dream.といったところでしょうか。see my dream だとおかしいですもんね。知らんけど。

夢でしか逢えないというのはあまりに切ないですね。実質、今後会える保証はないということと等しい訳ですから。先程「天気」を「二人の関係」に喩えましたが、それに則ると夜は「二人が会えない状態」という風に解釈できますから、”夜は長い”と嘆くのにも納得です。

サビ3

楽しいも大切も大好きも そこにある一瞬を永遠にしよう
何ひとつ無駄じゃない ワンピクセルのかけがえのない今

サビ3

号泣ポイントです。永遠の別れとなった二人が会う機会はもう二度とありません。
もう二度とないからこそ、健気に今この瞬間を永遠にしようとする二人の姿勢が涙を誘います。
しかし、そんな二人の間にも永遠に残るものがあります。

写真?いえいえ、そんなものではありません。

背を伸ばし凛とした横顔 照れ隠しそっぽ向いた顔も
こぼさずに切り取ってくよ この眼はいつも君を追いかけてる
ピース!

サビ3

お待たせしました。サビ1で提起した「Aが撮っているのは本当に写真なのか」問題に対する私なりの答えです。
まず、”この眼はいつも君を追いかけてる”という部分に注目してください。

ここ、何故”目”ではなく”眼”なんでしょうか?

これは、Aの目をカメラのレンズ(一眼レフと言ったりしますよね?)に喩えているからだと思います。つまり、ここでの日常を切り取る「カメラ」はA彼女自身であるということです。

単純にAのカメラがBを追っているという解釈もできるかもしれません(そしてそれは部分的には正しい)と思いますが、それだけだとやはり上述のような齟齬が生じます。

そして前者の解釈を取ると、色々と都合よく説明がつきます。例えばサビ1。

楽しいも大切も大好きも そこにある一瞬を永遠にしよう

サビ1

写真は「記録」は永遠にできますが、その時の「感情」までは永遠にできません。写真を見て懐かしい思いになることはできても、その時の感情までは再現できません。写真が趣味のAはそれをよく分かっていたからこそ、Bとの時間の一瞬一瞬やその時の喜怒哀楽も永遠に(覚えていられるように、大切に)しようとしたのではないでしょうか。

嬉しいも最高もサンキューも そこにある感情ごと写すよ
何ひとつ逃さない じっと見つめて捉えてみせるから

サビ2

Bとの思い出を永遠に覚えていられるように、その時の景色だけではなく”感情ごと”覚えておこう。
どの瞬間も見逃さない。ずっとあなたのことを見ているから。

教科書で隠した泣き顔 窓際でまどろむ寝顔もこぼさずに切り取ってくよ 
ほらこっち向いて君は何が見える?

サビ2

どんな時の君の顔も思い出も覚えておくよ。あなたの目には私の顔(や私との思い出)はどう写ってる?(私との時間を楽しいとあなたは感じてくれただろうか?)

この様に解釈すると、スムーズに歌詞が飲み込める気がします。

この曲が伝統曲として受け継がれて来たのは、この「写真に頼らなくとも、この瞬間を全力で楽しもう、大切にしよう」という気持ちが非常に大切なことを伝えてくれているからではないでしょうか。

近年、通信技術の進歩により人々はいつでもどこでも誰とでも連絡が取れる様になりました。また、本来ならば「その時、その場にいた者だけができた体験」といったものの価値も、映像技術の発達によりすっかり下がっていきました。人と人が同じ場を共有する機会やその重要性が見失われてしまったのです。いつからか人は、その場を体験することよりも、その時の写真を残すことに注力し始めました。

そういった時代の黎明期に作られたこの曲は、記録を残すこと(永遠にすること)に集中するぐらいなら、その”かけがえのない”時間を永遠に覚えていられるような過ごし方をしよう、その日々を大切に生きようということを伝えてくれている気がします。

最後に

ここまでこんな駄文を読んでくださった方、本当にありがとうございました!
トンチンカンな考えをしている部分も多々あった(というかほとんど?)と思いますが、初めてなので許して下さると嬉しいです。
自分の考えを自分なりにまとめる(そしてあわよくば人に見てもらう)ことは割と好きなので、個人的には満足しています笑

それではみんなで、せーのっ

ピース!

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