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遠征がありがたい


福島県出身です

福島県で生まれました。桑折町で生まれ、国見町の藤田に引越したのは3歳ぐらいだったか。藤田に住んでいたのは5歳まで。幼稚園の年長さんの時に京都府綾部市に引っ越したので間違いない。その3歳から5歳までの記憶がなぜか鮮明だ。
父がグンゼ株式会社に勤務していて、養蚕担当で全国の工場に転々と勤務していた関係で大学生になるまでに引っ越した回数は(自分が生まれてから)5回。そのうち福島県にいたのは生まれてから5歳までと、中学2年から高校卒業までだ。
生まれた地であること、多感な中学高校時代を過ごしたことで故郷は福島県だと自分では思っている。
藤田では新築の家に引っ越した。多くの社員が手伝ってくれてとても賑やかだったのを覚えている。若い社員が来てスズメ撃ちをして宴会をしていたことや、隣の小学校のプールでお兄さんたちが赤い褌で泳いでいたことを覚えている。なかでも鮮明に記憶しているのは、裏に桃畑があり、そこで小学生の悪ガキたちと桃を獲っていたら農家のおばさんがやってきて追いかけられたこと。幼稚園の自分は逃げ足が遅く、ころんで捕まって怒られた。
小学校上に家があり、学校の道は坂。小学生の真似をして覚えたての自転車に乗って坂を下ったのはいいけどブレーキというものを知らず、土手から転がり落ちて怪我をしたこと。

中学1年の時は埼玉県鴻巣市の中学校でサッカー部だった。2年になる春休み直前に父が「福島県に来週引っ越すことになった」と言った。その翌日は終業式で、担任が「ない」とは思いながら「春休みに転校する人はいないよね?」と言ったので自分が手を挙げたらクラスのみんながざわついた。
本宮第一中学校に転校の手続きに行ったら校庭にサッカーゴールがあったので安堵したのも束の間、サッカー部がないという事態に目の前が真っ暗になった。サッカー部を作りたいと担任に言ったらなぜか怒られた。そのままサッカーのことは忘れてしまった。ひたすらギターに向き合うようになったのだ。
でもこの中学時代の2年間は本当に楽しかった。
朝は安達太良山に向かって田んぼ道を通学。夏は壮大に、冬は雪を湛えて厳しい安達太良山を毎日見ていた。受験勉強そっちのけで練習して謝恩会でギターを一緒に弾いてくれた仲間もいた。

高校は県立安積高校に入学して、そこでもギター同好会。サッカー部があるのは知っていたが汽車通、もちろん汽車は走ってないがそう呼んでいた、の自分には無理だし(片道1時間以上)担任に運動部に行くと受験で失敗すると脅されので諦めた。(でも結局浪人した)

国見町でのこと(聖火リレー)

9月の1週目の試合はソニー仙台FCのホームゲームで宮城県の角田市。福島県ととても近い。
特に国見町からは40分だ。だから早めに出て国見町の昔の家を探しに行った。記憶は鮮明だから幼稚園にどう通ったか、商店街はどんな感じだったか、そこから家にはどう行くか、はほぼ覚えている。
商店街はすぐにわかった。そこから右手に小学校を見ながら坂を登って行くと家があった場所。しかしここからの風景はまるで違っていて全然わからなかった。小学校も体育館やプールの位置が変わったのかイメージが違った。
なんせ60年ぶりなので当たり前だ。

福島県出身の円谷選手の聖火 貴重な写真だ

1964年の東京オリンピックの時に国道沿いで国旗を振って聖火ランナーを見た。あの時走っていたのは円谷選手だ。自分でもそう思っていたらアルバムに写真があった。母の文字でそう書いてある。
その国道沿いの「国見道の駅」でランチに桃入りパスタを食べた。まさか5歳の和司少年は60年後に自分がここでスパゲッティーなるものを食べることになるとは知る由もない。

桃のエキスの入った日替わりパスタ

ソニー仙台FCとの試合

9月10日なのに宮城県も酷暑だった。角田市には初めて来た。関東リーグでは経験の出来ないことがある。JFLのおかげで全国に遠征が出来ることだ。クラブ経営としては遠征費がかかるのでそれをどう捻出するか頭が痛いが、選手にしても自分にしても全国各地に旅に出られるということは貴重な体験になる。今回は限りなく福島に近い宮城県の町。自分の生まれ育って、でもなかなか足を運べなかった故郷に行くことができた。だから「遠征はありがたい」と特別に感じたのだ。

さてその試合、0ー2で負けていたのだが、なんとか2得点を上げて引き分けに持ち込んだ。おかげで勝ち点が加算されて9位をキープ。
以前にも書いたがJFLあるあるだ。ソニー仙台FCはこの会場を使うのは今期初。いやそもそもあまり使ってこなかった。しかも仙台からは遠い。むしろ前泊した我々の方が近い。
そのためホームでありながらアウェイのような環境になってしまう。天然芝ではあるが酷暑のため理事が自らホースで散水をしているのを見ると本当にありがたいと申し訳ないという気持ちが湧いてきた。

伊川選手の得点

9試合勝ちがないという状況から一転10試合負けがない、という象徴的な試合だった。というのもこの勝ち始めた試合がホームでのソニー仙台FCとの試合だったからだ。2016−17シーズンでは一度も勝てなかったソニーに今年は負けなしとなったことは以前のJFLを経験してきたスタッフたちには感慨深いものなのだ。

冒頭の写真:宮城県まで足を運んでいただいた皆様

本宮で小休止

福島県本宮市(自分の時は安達郡本宮町)は最も多感な時間を過ごした街だ。中学2年から高校を卒業するまでの5年間。高校は郡山市だったので、日中3年間を過ごした郡山市も第二の故郷だと思う。
さて東北道を浦安までひたすらドライブして帰るのだが、夕食は本宮でと決めていた。ただし日曜日で時間も遅くなりつつあったので東北自動車道の安達太良SAでの食事とした。中学時代に始まった東北自動車道の工事。学校の裏側にSAができるとのことで工事現場を見に行ったことがある。まだ道らしいものがある程度のレベルだったけど、山を切り開いて一直線に伸びる道に未来を見ていた。

安達太良SAは本宮一中の裏だ

サッカーを諦めてひたすらギターを弾いていた谷口君(当時14ー15歳)は、まさか50年後に64歳になった自分がここで豚カツ定食を食べているとは想像もしていなかった。
なんで今サッカークラブの代表をさせていただいているかというストーリーは実はある。ここでは書ききれないので後日にするが、簡単に書くとサッカーを諦めてさらに15年が経ったある日のこと、息子が生まれたのだ。この息子にサッカーをさせたい!と思ったのがきっかけだ。

自宅でギターを弾いている谷口君(15歳)

谷口君は本宮でサッカーを完全に忘れていた訳ではない(と写真を見て気がついた)。写真はおそらく中学3年生で1974年の夏だと思う。机の壁に貼ってあるのは同年ドイツワールドカップで優勝した西ドイツの監督ヘルムート・シェーン氏(中央)と手前はおそらく皇帝フランツ・ベッケンバウアーではないだろうか。本棚の上(左)には「サッカー入門」という本が立っている。そうなのだ。自分は当時ベッケンバウアーが好きで、サッカーマガジンを買っていたはずだ。
あれれ、15歳も64歳もおんなじではないか??
ギターとサッカーを愛しているのだ。

前立腺癌の副作用

さて前立腺癌を忘れてはならない。薬の副作用だ。
このソニー仙台FCとの試合の日はひどい偏頭痛だった。朝から左側頭部が痛い。以前「四日市とホルモン治療の飲み薬(鈴鹿との試合)」で書いた通り、ビカルタミドという薬と痛い(らしい)ホルモン注射を打っている。その副作用がたまに来る。自分には頭痛だ。
一番辛かったのは沖縄台風で那覇に足止めをされてしまい、やっと1週間後に帰宅したものの、翌日から3日間何もできない程の頭痛に悩まされた。
そこで近くの順天堂大学病院の脳神経外科に行って、ことの次第を話して偏頭痛の薬をもらって来たのがソニー仙台FCとの試合の3日前。その薬を飲んでなんとか頭痛を抑えて試合会場に赴いた。
冷静に考えると「薬の副採用に薬の対症療法」ってなんかとっても矛盾しているが、これをしないと仕事にならない。
国見の道の駅で飲んだ薬はすぐに効果があり、頭痛は遠のいた。本来は車の運転なんかしてはいけないのだろうが…運転中にいきなりひどい肩こりになった。偏頭痛の薬は拡張している血管を収縮させて神経への圧迫を減らすのだと思うけど、周辺の血流が悪くなったのではないかと想像した。
そんな頭痛は週に1回ほどの頻度で起こる。

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