自慰直後 または 自慰

たった今自慰が終わった。興をのらせて文を書く。

と言っても書くことはない。力も入らない。頭も働かない。眠い。

自慰は好きだ。理由は単純で、時間が過ぎるのが早いから。そして終わった後のあからさまな気怠さが、空虚さを忘れさせてくれる。つまり、自慰の後しばらくは自分が空虚であるのではなく、自慰の後の状態として空虚さがきただけだと知覚される。もう頭が冴えてきた。ちなみにまだパンツも履いてない。

さて、こうして文を書くと自分が自慰を正しく自慰として行っている事が分かった。これが許容されて、日常の中で虚しさを慰めるために何かに囚われることが許容されないのは何故だろう。

多分、自慰の最中の自分を俯瞰する事があまりに難しい。そうでなければ時間が早く過ぎ去ったと知覚はされない。欠伸が出た。俯瞰するために自分で映像を撮るなどしても良いが、それはもっと心が悪くならないと出来ないだろう。

文章は書けば書ける。それは良質ではないが。これは多少習熟したプログラミング言語と同じ。これに良質さを加えるにはそれ相応の俯瞰か環境が必須だ。少なくとも僕にはどちらもない。

逆に、英語では文を書くことすらままならない。もちろん読むことも。これは極めて簡単な手法で解決しうるのは現代の機械翻訳の技術。

何が言いたいか?自然/機械言語を多数/高レベル習熟している人間は必ずそれを生かす道がある。人間は殆どが基本的に言語で構成され、言語で感じて、言語で伝えて、言語で思考する。言語が違えば文化が異なるか、異なる文化では異なる言語が生まれる。老人に“マジ卍”は決して浮かび得ず、若人に“アフターコロナ”は決して浮かび得ない。

全く無関係だが、言語で思考するのに必要なのは脳と生命維持活動に必須な器官以外のどこだろう。と言うか、そもそも我々はどのように言語を習得したのか?言語習得以前はどのように思考していたのか?その時点でそもそも思考はあり得たのか?(※他動物と差別化されるほどの)こういう事に興味が出てから大学受験を行っていれば、また違った道もあったかもしれない。

しかしこの感情すら一時的で、実際には僕は大学受験の際に工学を志したのだろう。もう忘れているが、そうだったに違いない。