巨人と阪神で監督を務めた唯一の野球人・藤本定義(前編)

2024年7月4日、阪神タイガースがマツダスタジアムでの広島カープ戦に勝利し、阪神の指揮を執る岡田彰布監督が514勝目となり、タイガース歴代監督で勝利数がトップタイとなった。

これまでの監督最多勝利は、藤本定義で、1960年から1968年まで9シーズンを指揮を執り、リーグ優勝は1962年と1964年の2度、514勝424敗、24引分、勝率.548という成績を残していた。


藤本定義は、読売ジャイアンツの事実上の初代監督でもあり、ジャイアンツとタイガースの両チームで監督として指揮を執ったことがある唯一の人物である。

藤本定義の野球人生を振り返ってみよう。


学生野球の名門・松山商で全国大会に4年連続出場

藤本定義は1904年12月20日、愛媛県松山市で生まれた。

愛媛県立松山商業学校(現在の松山商業高校)に進学、野球部に入部した。
松山商業の監督は近藤兵太郎で、1919年夏の第5回全国中等学校優勝野球大会(鳴尾球場)に初の全国大会出場、しかもベスト8に導いており、藤本らは徹底的に鍛え上げられた(近藤は2019年秋に監督を辞任、1931年夏の甲子園大会で、台湾の嘉義農林高校を全国大会初出場ながら準優勝に導いた)。

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松山商業は全国中等学校優勝野球大会には第6回から第9回まで4大会連続で出場しているが、優勝まではたどり着けなかった。

1920年(大正9年)の第6回全国中等学校優勝野球大会では、藤本は三塁手として出場、準決勝で慶応普通部と対戦したが、延長16回の激戦の末に3-4で敗退(慶應普通部は準優勝)。

1921年(大正10年)の第7回全国中等学校優勝野球大会では、投手としてマウンドに立ち、初戦の2回戦の明倫中では4失点ながら11奪三振で完投、5-4で勝利したが、準々決勝で京都一商に1-7で敗退した。

1922年(大正11年)の第8回全国中等学校優勝野球大会では準決勝で、エース・浜崎真二を擁する神戸商と対戦、藤本は浜崎と投手戦の末、9回裏に松山商は内野守備の乱れで1-2のサヨナラ負けを喫した。
藤本は11奪三振、浜崎も13奪三振という投げ合いであった。

1923年(大正12年)夏、鳴尾球場で最後の開催となった第9回全国中等学校優勝野球大会では、松山商業は優勝候補の筆頭にあげられていたが、2回戦で、兵庫の進学校である初出場の甲陽中(現・甲陽学園)と対戦、藤本は8回まで無失点に抑え、2-0とリードしながら、9回表に甲陽中の岡田貴一に逆転3ランを放たれて敗退した(その後、甲陽中は初出場・初優勝)。

結局、藤本は4年連続で全国大会に出場したが、頂点には届かず、松山商業の全国優勝は1935年の第21回大会まで待たなければならなかった。

早稲田大学野球部のエースとして、復活の早慶戦で勝利

松山商業を卒業した藤本定義は1924年に早稲田大学商学部に進学、野球部に投手として入部した。

藤本は鋭く曲がるカーブを決め球に持ち、「カーブの藤本」と言われ、活躍した。
1925年秋季に復活した「早慶戦」では、10月20日の第2戦に登板、勝利投手となった。



第二回戦は十月二十日、同じく戸塚球場。早稲田は谷口(五郎)、竹内(愛一)に次いで三代目の名投手藤本定義(後に巨人、阪神等の監督)、慶応は永井武雄が投手だった。慶応は藤本をよく打ち七安打を飛ばしながら得点は一、早稲田は安打八ながら七点を収めて楽勝した。
実はこの早慶戦は復活最初だから、独立した戦いとして取り扱い、リーグ戦の中には数えぬことになっている。

藤本の活躍もあり、早稲田はこの年、1925年秋季リーグの優勝に貢献した。
早稲田は10勝1敗と圧巻の強さであったが、明治大学のエース・湯浅禎夫(よしお)はノーヒットノーラン2回を達成しており、早稲田の唯一の1敗は、藤本は湯浅に投げ負けた試合である。

(その後、1950年に職業野球の2リーグ分立後のパシフィック・リーグで、藤本は大映スターズの監督として、湯浅は毎日オリオンズの監督としてしのぎを削ることになる。

早明第一回戦は十月二十五日、明大駒沢野球場で行われた。

(略)

第二回戦は、早稲田は藤本(定義)を立てたのに対し、明治は湯浅(禎夫)の連投である。早稲田は二回に四点を取ったが、明治は七回に二点、九回には大量五点を獲得し、前日の雪辱をなした。

(略)

このシーズン、早稲田は十勝一敗の強みを誇った。


東京鉄道局全大宮に監督に就任、東京巨人軍を打ち負かす


藤本は1929年(昭和4年)に早稲田大学を卒業すると、大阪鉄道局吹田に入社、1933年秋からは「東京鉄道局全大宮」(現在のJR東日本野球部)で選手兼任監督を務めることになった。

1935年、米国遠征から帰国した「東京巨人軍」は日本国内を巡業し、実業団チームと対戦したが、各地で連戦連勝していた。

ここで藤本定義率いる全大宮は東京巨人軍と対戦することになった。
全大宮は、兵庫の旧制・神港中学校(現在の神港学園)、國學院大學でエースを張った前川八郎を擁していた。

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第1戦は巨人がホームグランドにしていた静岡草薙球場で行われ、巨人が1対0で勝利したが、第2戦は全大宮の本拠地・大宮球場(現在の県営大宮球場)で、超満員の観衆を集めて行われ、全大宮が6対4で巨人に勝ち、1勝1敗のタイとした。

対抗試合は2試合の予定だったが、巨人軍から、第3戦で勝負を決めようと挑戦され、早稲田大学の戸塚球場でその3回戦を行うと、全大宮が打線が爆発、9対4で快勝した。
収まらない巨人は全大宮に4度目の試合を挑み、4回戦目は巨人が0対2で勝利、2勝2敗の5分の星に終わった。
この時の巡業において東京巨人軍は36勝3敗の成績を残しており、3敗のうち2敗が藤本率いる全大宮に敗れたものだった。

すると、巨人軍は藤本の手腕を認め、その手腕を見込んで東京巨人軍の監督に招聘されることになるのである。
(なお、この時、巨人軍を抑えた前川八郎も巨人軍に引き抜かれた)

この時、巨人軍の初代監督を務めていた三宅大輔(のちの阪急軍監督)は、全大宮戦での敗戦の引責で解任の憂き目に遭い、総監督だった浅沼誉夫が2代目監督に就任する。

職業野球経験なしで巨人軍の第3代目監督に、黄金時代を築く

藤本定義は1936年6月16日、巨人軍が第2回アメリカ遠征から帰国した時点で監督として合流した。

(巨人軍の初代監督は三宅大輔、2代目は浅沼誉夫だが、日本の職業野球は1936年7月から公式戦が始まり、その時点では藤本が指揮を執ったため、藤本を初代監督として紹介するものもある)

この最初の夏季大会で巨人軍は2勝5敗と惨敗に終わった。

巨人軍の選手たちは米国遠征で特権意識を持ってしまい、しかも燃え尽き症候群に陥っていたという。

藤本はこの結果をアメリカ遠征の驕りと考え、鍛え直すことが必須と考えた。そこで兵役を終えたばかりの三原脩を助監督兼任選手として復帰させ、群馬県館林市の分福球場で「茂林寺の特訓」と呼ばれる、猛練習を行った。

こうして、1936年秋季大会では公式戦第1回となる優勝を果たした。
その後、藤本は7年間の在任中の9シーズンで、巨人を7度の優勝に導き、巨人軍の「第一次黄金時代」を築くことになるのである。

初めて「投手ローテーション」を確立


藤本は1937年のシーズン、同一球団の2連戦には初戦に沢村栄治、2戦目にヴィクトル・スタルヒンまたは前川八郎を起用する、という投手起用法を考案した。
これがいまでいう、「先発ローテーション」の先駆けである。
しかも、先発投手には事前に登板日を予告していたという。

藤本は東京鉄道管理局に勤務していた際、「統計係」として国鉄(現在のJR)各駅の乗降人数を集計整理する業務を担当しており、これが「先発ローテーション制」確立に役立ったと言われている。


巨人軍の第1期黄金時代を築くも、確執で退団


「強い巨人」をつくりあげた藤本であったが、1941年の後半から、球団フロントとの確執が激化し、1942年に東京巨人軍が5連覇を達成したのも束の間、藤本は同年12月の定期総会で辞意を表明し、後任として中島治康を推薦、1943年1月に正式に辞任した。

藤本は辞意の理由として表向きでは「7年間の監督生活で疲れ切った」と述べていたが、実際は前年のトラブルを始め、球団社長である市岡忠雄らフロントとの確執に耐えられなくなったことと、太平洋戦争の激化が理由だったという。


実業家・田村駒次郎の庇護で、戦後、パシフィック監督で復帰

藤本は巨人を退団後、実業家・田村駒治郎が経営する「田村駒」の秘書に迎えられ、東京の田村駒別邸に身を寄せていた。

戦後の1946年、日本にも職業野球が復活することとなり、田村が経営するプロ野球球団「パシフィック」の監督として、藤本は球界に復帰することとなった。

職業野球の復活にあたり終戦直後の混乱期で各チームとも選手の獲得に奔走していたが、日本野球連盟(現在のNPB)は第二次世界大戦による中断期に「選手はかつて所属していた球団に復帰する」「他球団に入団する場合は前所属球団の了承を得る」などの取り決めが存在した。

しかし、藤本は「戦争が終わって日本もイチから出直す。職業野球も同じ。選手も自由に球団を選ぶべき」と主張し、戦前に東京巨人軍に在籍していたヴィクトル・スタルヒン、白石勝巳や、大阪タイガースに所属していた藤井勇、藤村隆男を勧誘して、パシフィックに入団させた。

藤本は職業野球の中断時、球団側が所属する選手の面倒を見ずに放出したことを苦々しく感じていた。

日本野球連盟は「スタルヒン、白石、藤井、藤村は巨人と阪神に優先交渉権があるため、パシフィックの選手とは認められない。公式戦への出場は見合わせられたい」との通告が出されたが、1946年、公式戦が始まると、藤本はこの通告を無視してを白石、藤村を試合に出場させた。

日本野球連盟はパシフィックと度重なる協議を行った結果、同年10月4日になって以下の裁定を出した。

・白石らは前年までの給与を旧所属球団から受け取っていなかったことからパシフィックへの帰属は認める
・ただし、白石、藤村の選手2人を出場させた5月の4試合は、帰属が決定する前の試合として無効、没収試合として9-0で相手球団の勝利とする
・パシフィックには制裁金1万円、監督の藤本には制裁金200円、および1週間の試合出場停止とする

「日本野球選手会」を組成、初代会長に就任、「10年選手制度」を導入


藤本は監督の立場ではあったが、選手の待遇の改善が必要と感じ、1946年11月、任意団体として「日本野球選手会」を発足させ、初代会長に就任した。
翌1947年4月14日 には、選手と経営者の対等な立場を確約し、選手の人権保障と自由を謳った憲章を宣言。あわせて「10年選手制度」を導入させた。

これも藤本がかつて東京鉄道局に勤務しており、国鉄の労使問題を目の当たりにしていた経験が役に立ったものと思われる。

ビクトル・スタルヒンの復活を支援、200勝、300勝を見届ける

藤本は巨人監督時代のエース、ヴィクトル・スタルヒンを終生、かわいがっていた。
戦中、様々な迫害を受けたスタルヒンを藤本はかばい続け、スタルヒンも藤本を父親のように慕っていたが、スタルヒンは終戦間際、長野県軽井沢の外国人収容施設に軟禁され、戦中・戦後の混乱で二人は音信不通となっていた。

ところが、戦後、1946年にスタルヒンが進駐軍の通訳として進駐軍のジープに乗っていたところ、偶然、藤本定義と再会したことで、藤本とスタルヒンの師弟関係が復活することになる。

「僕は藤本さんと一緒なら野球をやりたい」

スタルヒンは巨人軍の誘いを断ってパシフィックに復帰した。

しかし、野球を離れていたスタルヒンは別人のように太っており、職業野球への復帰に向けて練習を始めてもなかなか体型が元に戻らなかったという。
それでも、同年10月13日のゴールドスター戦に復帰初登板を果たすと、10月20日のゴールドスター戦で完投勝利を挙げ、日本プロ野球初の通算200勝を達成した。

1948年に藤本が金星スターズの監督に転身すると、スタルヒンはバッテリーを組んでいた捕手の伊勢川真澄とともに、藤本の後を追って金星に移籍した。
金星スターズは1948年12月、永田雅一率いる映画会社の大映に買収され、チーム名が「大映スターズ」に替わったが、翌1949年、スタルヒンは27勝を挙げて9年ぶりに最多勝利のタイトルを獲得している。
1950年に、職業野球はセントラル、パシフィックの2リーグに分立し、大映はパシフィック・リーグの一員となったが、その後も、スタルヒンは藤本の元で、決して戦力が揃っているとはいえなかった大映を支え続け、Aクラス(上位4チーム)入りを保っていた。
スタルヒンが在籍した金星・大映に所属した1948年から1953年まで、チーム348勝のうち、スタルヒンが挙げた勝利は80勝にも及んだ。

1954年、スタルヒンは藤本の元を離れて、高橋ユニオンズの第1号契約選手として移籍した。
藤本はスタルヒンの離脱による戦力ダウンを覚悟しながら、スタルヒンに対して、「高橋は移籍金をくれるから、それをもらって人生の足しにしなさい」と勧めたという。
スタルヒンが抜けた大映は1954年、パ・リーグ最下位の8位に沈んだ。

トンボユニオンズに替わった1955年、9月4日に京都・西京極球場で行われた、スタルヒンは通算300勝を達成したが、奇しくも対戦相手は、藤本率いる大映スターズであった。

トンボ打線は金星から7点を奪い、投げてはスタルヒンが4失点ながら完投勝利を挙げ、プロ野球史上初の300勝という快挙を成し遂げた。

(のちに1962年に記録が修正され、訂正され同年7月28日の近鉄戦での勝利が300勝目となった)

藤本は自身の目の前で、300勝を挙げたスタルヒンについてこう振り返っている。


「熊の玩具を唯一の友として北海道の旭川からやってきた、西も東もわからぬ少年が、300勝をあげるのを目の当たりにして、私は何とも今昔の感に堪えなかった。

ナインの祝福を受けた彼は、さっそく相手チームの私のところにやってきて、『藤本さん、ありがとうございました』と、まじめくさった顔で頭を下げた。私は彼と堅い握手を交わした。

国籍なき流浪の民として、種々の圧迫を受けながら、それに負けず、ついに300勝を成し遂げたスタルヒンは、やはりりっぱなスポーツマンであった。」(藤本の回顧)

阪急ブレーブス監督就任も、三原脩、鶴岡一人の後塵を拝する

藤本は1956年まで大映スターズの監督を務めたが、1957年からは同じパ・リーグの阪急ブレーブスの監督に就任した。
実に藤本にとって4球団目の監督就任である。
しかし、三原脩率いる西鉄、鶴岡一人率いる南海の牙城を崩すことはできず、2年目の1958年にAクラスがやっとで、1959年はオールスターゲームまでに借金28と低迷し、シーズン途中で退陣となった。

巨人軍のライバル・大阪タイガースに三顧の礼で迎えられる

1959年のオフ、球界に激震が走った。
藤本定義が、大阪タイガースのヘッドコーチ兼投手コーチに就任したからである。
タイガースの監督が一軍コーチの金田正泰に交代したが、「藤村富美男排斥事件」の首謀者と目された金田は選手からの求心力に欠けていた。
そこで金田は16歳年上の藤本に頭を下げ、ヘッドコーチの就任を依頼したのである。
当初、藤本はタイガースの入団を逡巡したものの、セントラル・リーグ会長となっていた鈴木龍二に相談、背中を押された。

1960年、タイガースはAクラスを確保した。
しかし、金田の目論見は裏目に出た。タイガースの球団社長の戸沢一隆と藤本が昵懇となり、金田の頭越しに様々な決定がなされることが露見すると、金田は藤本を疎んじ始め、藤本に若手の育成を任せるという名目で二軍に配置転換した。
1961年、大阪タイガースから「阪神タイガース」に改名して臨んだが、シーズン開幕から不振、5月中旬には一時、9勝17敗と大きく負け越した。
5月下旬に、藤本が一軍に復帰、6月6日、金田は休養を言い渡されたが、事実上の解任だった。

代わって代行監督に就任したのが藤本である。
巨人軍の監督を退任して19年目、ついに藤本はライバル・タイガースの監督に就任して、「打倒・巨人」への執念を燃やすことになる。

(つづく)



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