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また、わたしを置いていく

付き合っている彼が、今日で25歳の誕生日を迎える。25歳と聞くと、立派な大人だなあ、と思いつつ、1年もたたずにわたしもそうなるのだと思うと驚く。わたしも24歳か。現代の日本のルールにのっとると、わたしたちが同い年の期間は5月10日から今日7月17日までの2か月と1週間。今日、またその差が数字として明らかになった。

付き合っている、という言葉に未だ違和感を覚える。「付き合う」とは何なんだろう?こんなことを延々と考えている。なぜ、こんなにも言葉にビンカンなのか?ビン・カン・ペットボトルなのか。彼も、言葉に対してペットボトルである。1か月ほど前、わたしが夜行バスで東京に向かうバスを前に、出発ギリギリにくれた手紙。運転手さんが声を荒らげるまでわたしに直接伝え続けた愛の言葉すべては覚えてないけど、その時にも感じた「可笑しさと感動」は感覚として覚えている。

なぜこんなにも彼はアツいのだろうか。迸るエネルギーは毎日どこで生成されているのか。ホームメイドなのか、それとも外注しているのか。どこで。どのように。そもそも人間は、こんなにもミッションを全身で体現しながら生きられるのか。

彼と話すとき、彼を見るとき、周囲から彼について話を聴くとき、わたしは自分を否定するための種を見つけるのが得意になりすぎてしまった。それはきっと、わたしがすぐに彼の行動の意味や、意義や、難しさやそれゆえの魅力を理解してしまうからだろう。挙句、そのすべてに嫉妬してしまう。わたしの「刺激と反応」のスイッチは彼と出会ってから経費削減でボタン数が激減し、「桂思郎に関する刺激」➡「自己否定という反応」➡「嫉妬として表出」とかなり簡略化されてしまったようである。

「夢を叶えられない病」をやっとこさ克服した彼をきっかけに、今度はわたしが「夢を応援できない病」を発症させてしまったようだ。いや、病の温床はわたしの中にすでにあった。彼の存在によってわたしの中のその病原菌を発現させ、可視化させることで向き合わせてくれたのだ。「夢を叶えられない病」も「夢を応援できない病」も根底では繋がっている気がする。

「置いてかないで」

わたしが自己防衛本能を働かせ、彼を突き放すのと同時に、心の中にいつも出てくる言葉だ。どういうわけか、日本語としての意味はわかるものの、いまいちピンときていない。誰がわたしを置いていくのか(まあこちらはおそらく見当はついている)、「置いてく」とは具体的にどんな行為なのか。
自分の中に出てくる、そんな愛おしい声を味わい噛みしめて、今日この日も生きていきたい。「痛みの先には願いがある」と信じて。

誰かの誕生日に、こんなにも微妙なテンションの文章を書く人もなかなかいないだろうと思う。
適当に「おめでとう」の言葉でやり過ごしたくなくて、でも、今の自分の中に「何か大事なもの」が表出しているよと表現せざるを得なかった。結局のところ、彼が生まれてきたことに大きな意味を見出しているのはわたし自身なんだろう。彼は面白い。いなかったら、わたしの人生の面白さは半減していただろう。それでいいやと思う。

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