【往復書簡】2通目(シモダヨウヘイ様)

拝啓 シモダヨウヘイ様

急行です。

このごろは、熱しやすく冷めやすいというシモダさんを今年の夏も見習ってくれないものか、と汗をぬぐいながら考える日々を過ごしております。毎日暑すぎです。この暑さ、はやく冷めてしまえばよいのですが。

私の趣味は言わずもがな絵を描くことなのですが、とはいえそんなことはどうでもいいので、さっそく「浴びる遊び」と「探す遊び」について話を進めていきたく存じます。

私が思い当たる「浴びる遊び」について考えてみました。
私は夕食後にテレビを鑑賞する習慣があるのですが、このテレビというのもわかりやすい「浴びる遊び」でしょう。これはこれで楽しく、佐藤二朗さんが常時しどろもどろになりながら司会を務める「99人の壁」や水彩画家の野村先生によるお手本が見事な「プレバト」がお気に入りです。私はただテレビ画面に向かってワッハッハと笑っていればよいので、シモダさんのおっしゃるとおり、これはとても楽ちんな遊びだとつくづく思います。

一方で悩んでしまうのが、目の前のことを「探す遊び」に分類すべきかどうか、ということ。これを考えるのがとても難しいのです。
パッと思いつくことから述べていきます。
私は地方紙やTwitter、それからInstagramで得たお出かけ情報をピックアップして、じっさいに出かけてみることが時々あります。これは「探す遊び」に分類してもよいのでしょうか? 私にはわかりかねます。と申しますのも、雑誌やインターネットはどちらかというと「浴びる遊び」に分類するのがふさわしそうな気がするからです。しかしながら、私が創作活動を始めたきっかけはインターネットですし、なら「浴びる遊び」の延長線上にある遊びは「探す」と呼んでよいのだろうかと、いま非常に悩んでいるところなのです。
もし呼んでよいのなら、「プレバト」で知った野村先生の水彩教本を買うか買わまいか、と書店の本棚のかたすみで葛藤しているこの時間も「探す遊び」の最中、ということなのでしょう。もっと絵を上達したい、それが現在の私の「渇き」である自覚はございますし。

そうそう。
シモダさんがおっしゃった、「渇く」症状が、最近の遊びにおいて見られなくなっている気がしてしまうことについてです。
テレビやインターネットが普及しすぎている現代において、人間は「渇く」直前に身の危機を察知し、適度に喉を潤わせるクセみたいなものが身についたのではないでしょうか。そのクセというのは、シモダさんが書簡の最後に私を気づかってくださったように、熱中症で倒れないため水分を補給するようなものです。「渇く」症状の予防法が身近にいくらでもあるのでしょうね。
その善し悪しはともかく、私は「渇かない」症状を否定するつもりはございません。ふだんは喉を適度に潤しつつも、渇くべきときには渇きたいからです。ここまで述べたことがシモダさんのおっしゃりたいこととズレていたなら、そのときはご指摘くださいね。

そしてここからは、先ほどは「どうでもいい」などと言っておきながら自分でザクザク掘り返すようなマネになってしまうのですが、私のオアシスについてです。それは画材屋さんです。なんせ絵を描くことが趣味ですので。
画材屋さんへとフラフラ遊びにいって、新商品が陳列されていたらとりあえずそちらに数分立ち寄ったりして、最終的に絵の具や紙コーナーから一歩も動かないようになります。そうした時間によって「潤されているなあ」と感じます。至福です。これは本にも言えることかもしれませんが、やっぱり、紙はよいですね。紙に触れて遊べる時間というのは貴重だとつくづく思います。受領印ですら、今は電子機器が用いられるくらいですので。

ところで、この書簡が始まって以来ふしぎに思っているのですが、シモダさんが「ふんわりした文章」を心がけていらっしゃるように見えるのはなぜなのでしょうか。ゆるふわできる場と、しっかり議論できる場の両立に関することでしょうか。お答えできる範囲でかまいませんので、理由をお聞かせくださると幸いです。

まだまだ暑い日が続きますが、あまりご無理なされませんよう。薬院駅周辺にあるカフェでの合同展、シモダさんなら期間中に二、三回くらいは来てくださるはずだと期待しております。
冗談です。

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