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俺が俺が!から不動心へ

「10年後の自分を想像して今を生きている(仕事している)か、どんな自分を想像しているか」
あちこちで、話す機会をいただくと、こうした言葉を発するようにしている。
「誰かのせいにしないとやっていけない自分か?」
「指摘や指導を受けると、非難されたと大騒ぎする自分か?」

過去の私はというと、もちろん、若いころは先のことを考えることなく突っ走ってきた。30代後半になってからだろうか、10年先を見るようになり、とにかく後進を育てていくことに力を注いできた。

今現在の私は「手柄は後進に与えたい」である。

今日は、そんな自分の10年前、20年前を振り返ってみようと思う。

20代前半のわたし

夏はバイトを朝までやってその足で海に行き、海から帰ってきて朝までバイトをするタフさもあった。若かったからできたことだ。学生時代は仕送りという仕送りはなかったので夜通しでバイトをしていた。大手が進出し規模を拡大したカラオケレストランのアルバイトだった。(今は撤退しているはず)
「ぱうぱうほど、隅々まで徹底して掃除をしてくれるアルバイトなんて見たことない。」そんな言葉を当時の店長からもらったことがあった。
「2週間ほど、店長不在だが、店締めと収支報告と夜間金庫への振り込み、ぱうぱうに任せたよ。」そんな大役もいただいた。今思えば、週末の売り上げは200万円近くあった現金を大学生の分際一人で夜間金庫に入金するって怖いこと。当時は何も考えていなかった。
このあたりで、仕事をする自分の一生懸命さは誰かが見てくれていることに気付き始めた。
一人暮らしの男の自炊が変わっていったのもここでの経験のおかげかもしれない。まかない飯を自分で作っていたので、料理に長けている先輩から教わった「キムチ焼うどん」「かつ丼」「オムライス」を作れるようになったことは自分自身の経験値を豊かにした。それまでは、腹が減ったらパスタを茹ででマヨネーズと醤油で炒めて食べたり、ご飯を炊くのが面倒くさいので納豆だけで食べたりと可哀そうすぎた。

「命を削ってでも、遊びつくそう」
大学を卒業する間際の仲間たちとの合言葉だ。言葉どおり、かなりの無茶をして遊びに時間をかけた。今ではコンプライアンス的にどうなのかということもあったと思う。
一番心に残っている遊びは、仲間5人で出掛けた「それぞれの実家に泊まろう会」である。一台の車を交代しながら運転をし、1週間かけてそれぞれの実家に泊まり、それぞれの親や兄弟姉妹と接見し、寝床と温かい飯、良酒をいただく贅沢な旅であった。

20代後半のわたし

かっこつけてばかりで中身のない10代から少し成長し、地に足を着け始めた20代。
「地に足を着けて最初の5年、仕事をがんばればどこででも力を発揮できるよ。」初めての職場のナンバー3の立場にあった上司からかけていただいた言葉は今でも糧となっており、後進に伝えている。

今は、「働き方改革」の波が押し寄せてきているので、正論化するつもりはないが、楽しい時代だった。
ご存じの方ももういるだろうが、私の仕事は残業代など出ない。それでも、夜遅くまで次の日の実践について考えたり、準備をしたり、少し先にある一大イベントに向けてのアイデアを出し合ったり、ゼロから考えたり・・・。23時過ぎに帰宅してからも夜中の2時近くまでパフォーマンスの練習を重ねたり、コメント書きをしたり。
先輩に教わったり、良いものを真似たり、しながら実践を重ね、自分色を加え「自分のもの」にしていく、こんなことを繰り返して自分の仕事力を高めていったのが20代後半だった。楽しく夢中であったが、血反吐を吐くような時間を費やしてきたのは間違いない。
「一流になりたい!」「あいつには負けたくない!」「誰よりも・・・。」そんな向上心が高い時期だった。金を稼いでいるという概念はなかった。

「余裕があるから遊ぶのではなく、遊ぶから余裕が生まれるのよ。」
隣の席の女性の先輩に、こんな一言をいただくほどの「働きマン」であったが、この言葉に感銘を受けた。「なるほど!!」
実際に遊ぶこともそうだが、遊び心を取り入れることも良きことであるとあると感じ、自分の実践には必ず「遊び心」が入るようになった。
「厳しいけれど、楽しい!」「怖いけれど、あたたかい!」職場ではこんなイメージだったのだろう。

「いいか、今はいい。ベクトルを同じに向けている仲間と多くの時間を費やすことについて、今はいいだろう。でも、自分が病気やけがをしたときに最後まで面倒を見てくれるのはそいつらじゃない。最終的には家族を大事にするんだぞ。」
退職が近づいている先輩からいただいた一言だ。
当時の私には理解が及ばなかった。「そんな先の話・・・。」この程度の認識でしか受け止めることができなかった。

今はよくわかるし、その通りだと思う。今の働き方にも影響を与えるほどだ。特に職場に一人で残って仕事するのは怖いことだとも思うようにしている。もし、倒れたら、朝まで誰にも気づいてもらえないもんね。

30代前半のわたし

承認欲求のかたまりであった。
おれが~、おれの~、おれなら~、と自分の実践や理論に自信があるからこそではあっただろうが、他を否定・非難し、難癖をつけ、首を傾げ、自分の実践を表舞台に上げようとする。掲げたがる。
自分を認めてほしい、名前を出してほしい、俺をもっと見てほしい、取り上げてほしい、俺の実践を広めたい、どうですか?、すごいでしょ?
仕事も軌道に乗り、積み上げていった成果も出て、学ぶほうから真似される側になる時期だったから仕方ないことでもあるし、誰しもが通る道でもある。それにしても、今思えば恥ずかしい。血気盛んな30代前半だった。
やりたい仕事だけではなく、そうでない大きな仕事も入ってくるようになり、さらに忙しい日々を送っていた。自分がやりたい仕事に時間をかけることができる仲間を近くでも見ていたので、妬みや悔しさもあった。羨ましかった。ヤキモキしていた。そうした環境が羨ましかった。だから、過去の実践で自分のアピールをひたすらしていた。小さい器なのだ。

仕事は相変わらず、遅い時間までやっていたので、生まれたばかりの我が子の入浴のためにいったん帰宅し、その後でまた職場に戻る日も週に何度かあった。ほぼワンオペに近かったのだろう。ごめんなさい。

30代後半から40代のわたし

立場や環境が変わっていいたのがこの時期だった。
「苦情やクレーム等のご意見を聴く立場」
「後進を育てる立場」
「全体計画立案とその推進」
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「大きな上部組織の方針に基づき、県内あちこちで指導する立場」
「人事に関すること・その説明」
「新しい進路に関すること・その説明」
「管理に関すること・処分に関すること」
「事件・事故に関すること・その説明」
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自分に携わってくださった多くの方に感謝の気持ちを改めて抱くようになったのもこのころで、これまでの自分自身を俯瞰して見ることができるようになったのも、いろいろな立場で仕事をさせてもらったからである。
この時期の私の立場や仕事は本当に苦しかった。それでも、多くのことに気付かせてくれたのがこの時期である。
刺々しさというか、角が取れて丸くなったというか、今はこちらに不備があるのであれば、安い頭いくらでも下げるし、周りの部下が「たいへんです!」と報告してきても、慌てることもないし、驚かなくなった。それだけの経験をさせてもらったのだ。
いつの間にか身に付いた「不動心」と「用心深く楽観的」である。

経験のないことは未だ挙動不審だけどね…笑


10年後、更なる広い視点と幅広い考えをもち、目の前のことに力を発揮できる50代後半になっていたいと思う。

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