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久留米の偉人【青木繁と坂本繁二郎】


2人の生い立ち

青木繁と坂本繁二郎は、久留米を代表する画家です。この2人は同じ年に、同じ故郷で生まれています。生家もかなり近いです。偶然とはいえ、何かしら数奇な運命を感じさせます。

実際に2人の人生は全く違っていて、青木は失意のうちに28歳の若さで夭折し、坂本は87歳まで生きて天寿を全うしました。

青木は若くして肺結核を患い、家族とも衝突して、家を出て放浪生活を送りました。
一方の坂本はフランスへ留学し、帰国後は代表作を次々に描き上げて、八女市名誉市民となり、文化勲章も受賞しました。

同じように天賦の才能を持ちながら生きた2人の運命は、本当に対照的です。
2人は高等小学校の同級生で無二の親友、且つライバルであったとも言われています。

青木繁の略歴

1882年 7月13日に久留米市荘島町で生まれる
1895年 3月に久留米高等小学校を卒業
1895年 4月に久留米中学明善校に入学。同級生に丸野豊、梅野満雄
1899年 2月に久留米中学明善校を退学
1899年 7月に小山正太郎が主宰する不同舎に入門
1900年 東京美術学校(現東京芸術大学)に入学
1904年 7月4日に東京美術学校を卒業
1904年 7月中旬から千葉県南部の布良を訪れ、代表作「海の幸」を制作
1905年 8月29日にたね(恋人)との間に、長男・幸彦(福田蘭童)誕生
1907年 8月に父危篤の知らせを受けて単身帰郷。同月21日父死去
1908年 10月に家族と衝突し、家を出て放浪生活に入る
1909年 久留米に戻り、坂本繁二郎留守宅などに滞在
1910年 10月に喀血し、松浦病院に入院
1911年 3月25日に死去。享年28歳

久留米城跡にある青木繁のレリーフ

坂本繁二郎の略歴

1882年 3月2日に久留米市京町で生まれる
1895年 久留米高等小学校を卒業
1900年 久留米高等小学校の図画代用教員となる
1902年 上京し、小山正太郎が主宰する不同舎に入門
1910年 1月4日にいとこにあたる権藤薫と結婚
1913年 長女誕生 1919年 次女誕生
1921年 フランスへ留学し、シャルル・ゲランに師事
1924年 9月に久留米に帰郷
1931年 八女市にアトリエを建立。以降、制作拠点となる
1932年 第19回二科展に「放牧三馬」を出品
1937年 第24回二科展に「水より上る馬」を出品
1954年 4月に八女市名誉市民となる
1956年 文化勲章を受章
1969年 7月14日に87歳で死去

石橋文化センターに移築されている「八女のアトリエ」

青木の代表作

1904年に東京美術学校を卒業した後、森田恒友、坂本繁二郎、福田たね、と共に千葉県南部の布良めらに行き滞在。※現在は館山市布良
ここで代表作「海の幸」(1967年国の重要文化財に指定)を制作しました。
画中人物の中に、1人だけ鑑賞者と視線を合わせているモデルがいますが、それは「たね」だと言われています。

この時に滞在したのは「小谷家」こたにけですが、地元で保存活動が起き、2009年に館山市の有形文化財に指定されました。

青木にはもう一つ有名な作品があります。「わだつみのいろこの宮」です。
「海の幸」では高い評価を受けた青木ですが、その後はあまり評価されなくなり不遇の時代へと突入していきます。
青木の渾身作である「わだつみのいろこの宮」も大して評価はされず、かなり落ち込んだようです。
しかし、後世になって見直され、1969年に国の重要文化財に指定されました。

青木が生きた時代は、油絵などほとんど売れない時代で、大変つらく厳しい時代でした。
天才・ゴッホもそうですが、生きた時代が違っていたら、きっと裕福な生活を送れたことでしょう。
でも厳しい時代に生きたからこそ、素晴らしい作品が作れたのだと思います。
後世に高く評価されて、歴史に名を残す、立派な生きざまであったと思います。

坂本の代表作

フランス留学から帰国し、八女に落ち着いた頃から、馬を描いた作品を多く制作しています。なかでも八女に移って間もない、1932年に描かれた「放牧三馬」や1937年の「水より上る馬」が代表作と言われています。

ある評論によれば、九州の大自然の中で、のびのびと過ごす馬を描いたこれらの作品は、単純化された色彩、特に黄土色や青緑色などを多く使って、淡く優しいタッチで制作されていると評価されています。

青木繁旧居

現在生まれ故郷の久留米に、青木が住んでいた住居が復元・保存されています。
もともと旧居の復元・保存には消極的であった行政に対し、地元有志が「青木繁旧居保存会」を立ち上げ、腰の重い行政に強く働きかけて、実現したということでした。
関係者から、①今ある場所に旧居が存在していたこと、②古い家は老朽化が激しかったので壊さざるをえず、復元する際に元の材料を一部使用したこと、③今でも管理運営は地元ボランティアが行っていること、などの話をお聞きしました。
歴史的建造物というのは、地元の強い意志と協力によって残されていくんですね。先人に感謝したいと思います。

坂本繁二郎生家

坂本家は代々、久留米藩に仕えてきた150石の家柄。建物は茅葺と瓦葺が結合した屋根を持つ、木造一部二階建の造りです。
現在は久留米市に残る唯一の武家屋敷で、平成15年7月28日に久留米市の有形文化財に指定されました。
平成18年度から保存整備事業が開始され、極力古い部材を再利用し、伝統的な工法を用いて建て直されています。

最後に

青木繁は福田たねとは、最後まで入籍していません。父亡き後の家族を支える才は無く、画家としても報われず、失意のうちに生涯を閉じたと推察されます。
1910年11月に家族に宛てた、自らの不甲斐なさを詫びる旨の手紙が遺されており、事実上の遺書と言われています。
天賦の才能を持ちながらも、病に侵され、もがき苦しんだ人生を思う時、世の儚さを感じます。


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