駆け込み訴へ(推しを観る幸せ)

重たい。わたしは何にせよ重たい。目の前に生きる大事で大切なパートナーに思うよりも、わたしの脳内に自由に生きる、出会ったこともない人たち。そんな人たちを毎夜夢に見るほどに思っている。あったこともないくせに。

例えばTVモニターの向こう側、例えば映画のシルクスクリーンの向こう側、緞帳でしっかりと隔たれるべき「こちら側」と「あちら側」。ああ、わたしはその超えては行けない線を決して超えることはしない。それが、せめてもの、最後のギリギリの、「こちら側」の扶持でございまするゆえ。

なーんちゃって。要はあの方々の世界に足を踏み入れるような根性も資格もないのです。年に何度かのあの方々のおこぼれをじりじりと受け取れる日を夢見ます。素敵な煌めくおこぼれを。それはもう駄菓子屋の一番最後のみそっかすのように待つ。

おこぼれが、与えられなくなりました。おこぼれどころか、彼の人々はおこぼれを回せるような状況にいらっしゃることが出来るのかどうか、もう今はそれだけが心がかかり。自由に、あちら側で暴れてらして。わたしはこちら側でただただ粛々とお待ち申し上げております。いつも、いつまでも、

あーあ。でもそれすらも駄目っぽい?わたし、あの人の視線のおこぼれにも与れない?会いたいのに、見たいのに、そして見てもらいたくてうずうずしているあの方々を多くの人に見ていただきたいのにね。

もどかしや、もどかそや。もどかして駄目なら泣きましょか。がらって駄目ならまた大人しく待つべきか。

お聞きください、わたくしどもは大業なことを望んでいるのはありません。ただ、あの方々の舞台が見たい。あの方々の長井時間をかけた汗と叡智の塊が、ただただ見たいだけなのです。

流行りコロナとはいかばかりなる業病か。嘆くことしか出来ぬ我が身か。

いつやと思う、いつやらば病葉憂するのか。わたしはあの人の好きなように動くあの人をただただ見たいだけなのですが。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?