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語りきれぬものは、語り続けなばならない

タイトルの「語りきれぬものは、語り続けなばならない」というのは、野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』の巻末に付された言葉である。
もちろんこれはヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』末尾の「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」に対する本歌取りとなっている。

だいたい、遠い目をして「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」なんて言い出すオトコがいたら、私の妖気アンテナは即座に反応し、警報アラームが脳内でけたたましく鳴り響きはじめることになる(実際にいたww)。
なんかこの言葉には「やたらとマウントとりたがるプロレス好きのオッサン臭」がプンプンと漂う。
「ガキとオンナは黙ってろ」とか、やたらと命令口調な「ねばならない」とか、そうやってメンドクサイ「語り」を忌避してラクしようとか、それぐらいこの言葉は胡散臭いのである。
その「胡散臭さ封じ」のための呪文となるのが野矢の「語りきれぬものは、語り続けなばならない」なのだった。

「沈黙せねばならない」西洋人でこういうことを言い出す人は極端に少ないが、逆に東洋人ではけっこう多い。テツガクの分野でのことだけど。
なんで西洋人にはこれを言う人が少ないかというと、聖書に「始めに言葉ありき」と書かれていたもんで、みんなそれに拘束されてきたから。そういう意味でヴィトゲンシュタインは西洋では珍しいタイプだ。
いっぽう東洋では禅の「不立文字」とか老子の「名の名とすべきは常の名にあらず。名無きは天地の始め」とかいった「言語化に対する不信感」があちこちで見受けられる。
もちろん私にも「言語化や名づけに対する不信感」はむっちゃある。それは過去に井筒の「分節」に言及したnote記事でもさんざん書いたとおりだ。
そんなわけで、私も遠い目をしながら「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」などとつい言ってしまいがちである。
だが、それを言ってしまうと「マウントとりたがるプロレス好きのオッサン」と同じ目で見られかねない。
違う、断じて違うのだ。
そしてその違いを簡潔に表明している呪文こそが野矢の「語りきれぬものは、語り続けなばならない」だったのである。
それゆえ禅宗では「わけのわからない(シュールな)禅問答」が繰り返されてきたのだし、道元は『正法眼蔵』という大部な書物で顔の洗い方からうんちの拭き方まで事細かに書き記したのだ。なぜならそれが「語りきれぬ(語りつくせぬ)もの」だから。

老子の「名無きは天地の始め」、荘子の「渾沌、七竅に死す」、禅の「不立文字」や「禅問答」、井筒の「分節以前」…これらはすべて「言語化も名づけもできない(=語りきれぬ)根源的な世界」をなんとか言語化しようと格闘してきた偉大な先人たちが「語り続け」た言葉なのである。

さてここで、格闘技好きのオッサンたちに絶大な人気を誇るブルース・リーの映画から有名なワンシーンを紹介したい。
「考えるな、感じるんだ」のところである↓。

以下のセリフ↓が続く。

「それは月への道を指し示す指のようなものだ」
「指に集中するんじゃない、指にばかり集中していると月(天上の栄光=真理)を見失ってしまうことになる」

これは禅でいう「月をさす指は月ではない」であり、原典は『大智度論』の「惑者は指を視て月を視ず」からきている。
この場合の「指」は物を指し示す「言葉」であり「名」で、「月」は「真実、真理」を意味している。さすがアメリカの大学で哲学を学んだブルース・リーではある。
だが、凡庸な人物はこのレベルで納得させられてしまい、その先にある真理にまでは到達できないでいる。まさに「月をさす指を見るのみ」である。

本当に重要なことは「このセリフもまた言葉によって語られたものであるという事実に気づくこと」にあるのだが、それこそが野矢の「語りきれぬものは、語り続けなばならない」が告げていることであり、人が人として天上界ならぬこの娑婆世界に生きる意味とは、まさしくこの「語りきれぬ(語りつくせぬ)ものを語り続けること」のストラグルにあるのではないかと、ある程度トシとった今となっては激しくそう思うのだ。

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