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「自我意識」は錯覚

↑このハラリの記事を受けて、「末那識自我(=人間が自由意志と勘違いしているもの)」の話の続きです↓。

心理学の各実験からも「人間が自覚的に感じている自分の意思に基づいた決定というのは錯覚であること」がわかってきて、AIにもそのような機能を持たせている、というのが下記の引用でした↓。

↑より引用)
従来、AIの研究では、「知能のセンターに存在する自己意識が各部位に対して指示を出してコントロールしている」という発想で「私」をつくろうとしていたのですが、このやり方ではどうもうまくいかない。そこで、今の研究はそれぞれの部位に単機能で勝手なことをやらせて、最後に「私がやった」と追認させるという方向になっています。

これをヘッダー写真の唯識図で説明すると、

まず、各感覚器官(前五識)からの入力はすべてダイレクトに阿頼耶識に蓄えられ、そこから自我の座である末那識無意識領域を通って出力された後で「意識(図でいうと前五識の左側の「意識」にあたる)」が「私がやった」と追認している。

ということなので、これは現在のAI研究における手法↓と「まったく同じ」ことが唯識でも現代心理学でも語られてきたこを意味します。

それぞれの部位に単機能で勝手なことをやらせて、最後に「私がやった」と追認させる

唯識における「末那識」は「阿頼耶識」の「生命現象というフラクタルな物理現象」を「各感覚器官(および意識)」と相互フィードバックする際の橋渡し役であり、各感覚器官が「他人、すなわち他の感覚器官」とは物理的に関連が絶たれているためそこに「自/他」という区別が発生し、それが「自我意識」となりました。要は「他人が殴られても私はぜんぜん痛くない」ということですね(これに関連する「ミラーニューロン」の話は省きます)。

だから自我意識は錯覚であり、仏教では「無我」を説いています。

生命現象が進化の過程で神経系を発達させ、やがてそこに「自我意識」という錯覚を生み出したのは、いつも言っているように「進化論的に見てそういう錯覚があったほうが遺伝子の生き残りに都合がよかったから」ということでしかありません。

【付録】

アスリートの為末大さんのnote記事より↓。

↑より引用)
ベンジャミンリベットが明らかにしたのは、人間の意識を伴う意図(自分が認識していること)は、後追いであるということです。ちょっと聞いただけだとよくわからない話かもしれませんが、これが自由意志が存在するかどうかの議論に大きな影響を与えました。
人間を考える上で、本人が意識し語り分析できる領域は、実は小さく、本人が知らず語り得ない無意識の領域は広大で、そこにこそ本当の人間の面白さが隠れている

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