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「『映写機の比喩』は元はベルクソンだった!?」の件
少し前にアンリミテッドで読んだ本に『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。~心理学的決定論~』 (光文社新書) Kindle版 妹尾 武治 (著)というのがあって、これは以前から「かなり強めの決定論者だ」と自ら宣言している私にとって久々のクリーンヒット本でした(今でも決定論者は少数派であり、なおかつマジョリティである自由意思派からはたいそう評判が悪いので)。
さて、この本の中に仏教の唯識思想と絡めて「ベルクソンの」映写機の比喩の話がでてたんだけど、「あれ、そういえば以前旧ツイで映写機の喩えについてつぶやいていたよなあ」と思い旧ツイ検索してみたら、自分で書いたものではあるけれどけっこう力作で面白かったので下に転載してみました。いわゆる「手前味噌」ってやつです。
ちなみに、下のツイにもあるようにこのときの「映写機の比喩」というのは佐々木閑さんの本の中に木村泰賢氏の原案として載っていたものです。
つまり、佐々木さんの元ネタが木村さんで、さらにその元がベルクソンさんだった…ということらしいです。ぜんぜん原本にあたってないですけど。
こないだ読んだ妹尾さんの決定論擁護本によるとベルクソンの「映写機の比喩」というのは
実在しているのは「現在」という1コマずつのフィルムだけだが、それが紡がれて「今の連続と持続」となって物語が意味を持ち、時間の流れが生まれる。しかし過去も未来も全てはじめから映写機の中に存在している。
といった内容のものらしいです。
ところでベルクソン本は前に安値のユーズドで買っていた「世界の名著」が部屋の掃除をしていたらひょっこりと出てきたので、最近巻頭の解説のところから読み始めました。
妹尾さんの本のほうは今どきの科学的知見に基づいて内容がアップデートされててかなり面白かったんですが、ベルクソンさんは東洋思想よりの人ではあるもののかなり以前の方なので中途半端に間違った科学的根拠に基づいていたりして読み進め難く、いっそのこと唯識思想ぐらい遡って古いほうが科学的根拠について諦めがつくので読みやすいです(私にとっては)。
【過去ツイ掲載】
では以下に映写機の喩えの古い連ツイをコピペします。
ちょうど「ひと昔」、10年まえのつぶやきですね。
まさに光陰矢のごとし。
仏教教理自身の錯誤も含めて、「倶舎論」を科学的に読み解くことを試みた佐々木閑さんの『仏教は宇宙をどう見たか ―アビダルマ仏教の科学的世界観―』という本を読むことでかなり(科学的に)すっきり頭の中がまとまってきた感があるので。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 6, 2014
死後も存続する意識(魂)とその輪廻転生はデフォで。
二つの仮説というのは、
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 6, 2014
「死後も継続する『意識』というのはほんとうに実在するのではないか」
「魂の輪廻転生というものは本当にあるのではないか」
というもので、これは前々から持っていた問いでした。
とうぜん仏教ベースの話になるんですが、すっきりとした整合性は見出せていなかった。
でもまあみんな繰り返し何度も輪廻転生してきてるわりに、ここ一万年ぐらいたいして変化してないよね、みたいな話で。何度もいいますが、魂の輪廻転生はデフォで。そこんとこよろしく。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 6, 2014
【倶舎論を現代科学で読み解く】を続ける。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 7, 2014
まず倶舎論を書いた世親は4世紀の人で、2世紀に活躍し「空」を説いた竜樹より二百年ぐらい後の人。釈迦入滅がBC2400年と仮定して、それから七~八百年後に登場してきた。
最初説一切有部に属して「倶舎論」を書いたがその後瑜伽行唯識学派に転向。
説一切有部の教義は今のテーラワーダ仏教に近いが、瑜伽行唯識学派は大乗仏教に属し、唯識思想をその根本に据えている。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 7, 2014
瑜伽というのはいわゆるヨガ、すなわちインド古来の瞑想のことで、それを通して得られた体験から唯識思想がまとめられていった。
…というわけで世親は説一切有部の教義を集大成する形で「倶舎論」を書いたが、その頃すでにかならずしも説一切有部の考え方に全面的に同意していたわけではないので、倶舎論にはところどころで世親自身のホンネがちらりと顔をのぞかせているらしい。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 7, 2014
そんなホンネの部分として、先に紹介した佐々木閑著『仏教は宇宙をどう見たか』第三章「仏教の時間論」の最後に世親の相続転変差別説について説明されている。これは「無我でありながら輪廻転生や業縁起が起きるのか、その『主体』は何か」という仏教にまつわる古くからある難題に世親が答えたもの。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 7, 2014
これがものの見事に現代の「カオス理論」だと佐々木氏はいう。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 7, 2014
第三章ではそれに先立って過去→現在→未来という一方通行「に見える」時間についての倶舎論の記述を現代風にコマ落とし映写機のたとえで解説してある(原案は仏教学者木村泰賢氏)。さらに先立つ章では「無我」について説明されている。
感覚器官からの入力がスクリーンに映し出される映像を「実体がある」「ホンモノである」と思い込ませている…といういつも言ってるあれです。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 7, 2014
それを連続したひとつの物語であると思い込んでいるけど、実際には刹那滅といって一つ一つバラバラのコマ割が次から次へと映し出されているにすぎない。
しかしわれわれはそれを連続性のあるひとつの物語だと感じている。 未来にあるコマがひとつ現在に降りてきてスクリーンに映し出され、つぎのコマが現在に降りてくると同時に先のコマは過去のリールに巻き取られている…ここでそのコマ送りに物語の連続性を持たせているのが業縁起による因果の法則。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 7, 2014
世親の相続転変差別説では、映画みたいに未来のコマ割が一本のフィルムですでに決まっているのではなくて無限大にバラバラのコマ割が詰まった袋みたいなのがあって(量子論の多世界解釈的)、そのうち1つが過去に巻き取られたリール(これは一本になっている)のストーリー(因)に基づいて選択され、
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 7, 2014
それが現在に降りてきてスクリーンに映し出される…という風にイメージできるみたいです。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 7, 2014
で、これのどこがカオス理論的かというとすでに確定された過去はともかく現在→未来においては「ほんのかすかな変動」を与えることができ、そのほんのかすかな変化が遠い先で大きな違いとなるからなんですね。
ところで、私はかねてよりかなり強めの決定論の立場にたってますけど、それはすでに決定した過去のリールとの因果関係で現在に現れているコマ、およびそれらがさらに呼び込む未来のコマ…という業縁起で起きる決定論のことですよん。だからもし、まさに今、ほんのかすかな揺らぎを起こせば、
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 7, 2014
無限大に存在する未来のコマの選択をほんのわずかにチェンジし、カオス理論にもとづくバタフライ効果によって遠い未来のストーリーを大きく変えるチャンスがあるわけです。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 7, 2014
ひとりひとりが、まさに今、何を考え、どう行動するか…そのささやかな変化によって、未来は大きく変わる。
まさに「今」という瞬間瞬間においてその責任が各自に委ねられている。その自覚があれば誰も「未来に悪い結果をもたらすこと」を選択しなくなるんじゃないですかねえ。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 7, 2014
二つの仮説のうちの一つである「業縁起による輪廻転生はある」をデフォでお願いします…といったのはそういう自覚のことでした。
「倶舎論と映写機のたとえ」についてちょっと追加で。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 8, 2014
この「未来→現在→過去」の映写機のたとえは量子論の観測者問題とも非常に共通性があります。
無数にある未来のコマはどれも現在と過去の「確定された」コマのリールから影響を受けて「確率的に」現在に降りてくるパーセンテージが決まっています。「すでに確定した」リールとの関連性によって未来のコマの確率に変動が生じているから、てんでバラバラでたらめなストーリーにはならないんですね。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 8, 2014
それがつまり仏教でいう「因果の法則」で、量子論でいう「観測者」とは、まさしく「今」映写機が一つのコマをスクリーンに映し出したその瞬間のことを意味しています。「今ここ」でそれまでは「確率」だったものが確定されるわけです。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 8, 2014
そして「今、この映写機でスクリーンにうつしだされたコマを見ている人」というのは各個人個人だから、一つとして同じ映写機、同じコマ、同じストーリーはないことになります。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 8, 2014
この「過去のリール」は宇宙開闢にまで遡る膨大な因果の連鎖です。
なんだか量子論の観測者問題とそっくりでしょ。
倶舎論と映写機のたとえで示したとおり、「無我でありながら過去が未来を決定する因果の法則」については科学的に説明可能です。仏教ではそれを「心(識)相続」などと呼んでいます。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 9, 2014
輪廻転生を繰り返しても継続しているその主体とは「確率として存在していたコマが映写機を通って確定された過去のリール」のことで、過去のリールによってある未来のコマが確率的に決定され「今」に降りてきて「個々の」映写機でスクリーンに映し出されている、
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 9, 2014
その「今」しかわれわれには認識し得ないのでした。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 9, 2014
仏教ではそれを「無明」と呼び、この因果則(業縁起)を明らかにすることによって過去のリールから導き出される未来の悪しき結果を絶つことを「さとり」と呼びました。
したがって業縁起思想と輪廻転生はセットで仏教教理の根幹を構成しており、これを外したらそれはもはや仏教と呼べなくなってしまいます。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 9, 2014
輪廻とはこの宇宙開闢以来の有情無情すべての転変のことをいい、転生はそれをわれわれ人間に限定して考察したものといえます。
「映写機のたとえと仏教的無我」の問題。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 11, 2014
個々の映写機は業縁起によって未来からひっぱってこられたコマを次々スクリーンに映しているだけだからスクリーンにも映写機にも我はありません。すべては心(識)相続が見せている幻だといえます。
だから仏教が無我を主張しているのは正しいのですが…
「すべては幻でアナタが思っているような我や実体なんてものは存在しません、以上」で終わられるとなんか気がめいるというか。だから仏教は根暗だっていわれるんですね、きっと。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 11, 2014
おなじようなことを思ったひとは昔から大勢いたみたいで、大乗仏教は「その先」を考えました。
映写機にはその操作をする映写技師がいて、しかもその映写技師は無数にある映写機にきっちり一人ずつついていながら全員同一人物であるというなんとも奇妙な話に。もちろん「人」ではないですが。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 11, 2014
仏教徒は不二一元論のヴェーダーンタ哲学の人たちとしきりに論争していましたから、
「汝はそれである」という梵我一如を絶対に認めず、無我や空など「ない」の主張を繰り返していました。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 11, 2014
「汝」とは我(映写機)のことで、「それ」とは梵(映写技師)を意味します。
映写技師はたくさんいてもひとりでした。つまり華厳経でいう「一即多、多即一」です。
で、「汝がそれである」なら、すべての人(映写機)に梵が備わっていることになり、これを仏教的に表現すると如来蔵、本覚思想となります。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 11, 2014
映写機のレベルでは多数あって「我」だと思えていたものが、映写技師にまでたどり着くとなぜか「みんな同じ」になってしまうわけです。
ヴェーダーンタの不二一元論では「汝はそれである」の梵我一如の境地を目指してますから、「ない。以上」で終わりの仏教よりも先にいっている気がしてしかたがないのですが、如来蔵・本覚系の思想を否定される仏教学者さんもけっこう多いです。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 11, 2014
しかし華厳の「多即一」で示したように、
大乗仏教は如来蔵を前提とし、修行によってそこにまでたどり着くことを目標としていますから、如来蔵の否定はすくなくとも「大乗の教えではない」ことになります。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 11, 2014
たしかに「無我」なんだけど、その先に「真我」があることを忘れて「ない」ばっかり言われてると気がめいります(笑)。
「一切衆生悉有仏性」っていい言葉なんだけど、これだと「お偉い人間様限定」みたいに聞こえるから「山川草木悉有仏性」「一切悉有仏性」という言い方が日本で生まれ、これが日本の仏教では多数派の考え方となっています。「梵我一如」により近づいた表現で好きです。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 11, 2014
『前世への冒険 ルネサンスの天才彫刻家を追って』 (知恵の森文庫) 森下 典子 http://t.co/owosHiCcgl @AmazonJPさんから
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 9, 2014
↑雑誌のライターだった著者は、京都にいる前世が見えるという女性の記事を書いてくれと以来され、取材にでかける。
以来じゃなくて依頼だ…気を取り直して。そこで彼女の前世はイタリアのそこそこ有名な彫刻家だったといわれる。著者はイマドキの科学的思考をする人だから当初はどちらかというと全否定。しかし知られざる事実が次々と明るみに…
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 9, 2014
どなたかのレビューにあるとおりダン・ブラウンなみに面白かったです。
これはフィクションではなく実話です。そして著者は最後までけっして全肯定には傾きませんでした。しかし出会った事実が天秤を肯定のほうへとより傾けている…
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 9, 2014
ある特殊な能力を持つ人だけにしか見えたり聞こえたりしないので、大部分の人は自分の前世のことなどすっかり忘れて生きています。
それでいいのだ、と著者はいいます。前世が誰であれ、そこで作られた業の結果が今の苦しみ喜びであったとしても、著者は今生を精一杯生きればいいんだと語る。「今がすべて」なんです。あっぱれです。
— kiyoda(合言葉は核なき世界)👽本人認証済みアカウント(グレイ) (@kiyokostar) January 9, 2014
転生はします。しかし忘れてます。けどやっぱり一本のリールでつながれたオムニバス映画です。
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