ジェンダーロール脱出応援団

最近スキした記事にこんなの↓があります。

一方で、昨日は「男装する物語(本とかドラマとか映画)は古くからこんなにいっぱいあるよ」という話をしました↓。

上の「鬼滅の刃の記事」と私が書いた「男装物語に関する話」は、ある一点でクロスしているように感じました。
つまりどちらも「ジェンダーロールの問題について語っている」という点において。

少し長くなりますが、上の鬼滅について書かれたnoteから引用させていただきます。

主人公・竈門炭治郎の名セリフのランキングがあるそうです。
その3位は、「俺は長男だから我慢できたけど次男だったら我慢できなかった」。
「長男だから」。こんなセリフを口にする幼い男の子や、子育ての場面で子どもにいい聞かせるお母さん、お父さんの姿も、たまに街で目にしますね。
ふと耳にしたら何の変哲もない言葉ですが、「長男だから」という表現は、「男らしさ」という特定のジェンダー規範を強調するものだという指摘もあります。
たしかにストーリー展開を見ていくと、一貫して「男らしさ」「力強さ」「責任感」といった価値観が一貫して描写の根底に敷かれているように感じます。
主人公は、「男だから」、弱いものを守らなければならない。そのための正義感や責任感を人一倍持っており、命をかけてでも、力強く、その目的を成し遂げなければならない・・・
この場合、「弱いもの」とは女性のことを指します。物語では、主人公の妹の禰豆子がその象徴的な存在として描かれています。
とても明確な勧善懲悪の物語ですが、「男=強者」「女=弱者」というステレオタイプの構図に置かれていることには、やはり違和感を感じざるを得ません。
何気なく目にし、何気なく口にし、何気なく行動していたものが、知らぬ知らぬのうちに刷り込みとなってその子の人格形成に影響を与え、ひいては強固なジェンダー規範を植え付けることに結びつくとしたら、やはり一定の注意が必要だと思います。
悪事を働くものと戦い、弱いものを守るのは、もちろん正義にかなったことであり、人間にとって根源的な倫理観であり、高次の規範の一つだと思います。でも、そのことと、「男」であること、「長男」であることとは、何の関係もありません。
映画を観た少女が、「私は女の子だけど、鬼と戦いたい」と言ったとき、その言葉を否定せずにともに考え、ともに時代を歩んでいく大人でありたいものです。

つまり私が自分の記事でとりあげた『とりかへばや物語』『ムーラン』『花と将軍』『リボンの騎士』『ベルサイユのばら』『梁山伯と祝英台』『愛のイエントル』、そして『月に咲く花の如く』↓に至るまで、すべて「女性が女性に求められるジェンダーロールではなく男性に求められるジェンダーロールで生きていく困難とそれを克服していくさまを描いた」作品群であり、
また上記引用末尾の『映画を観た少女が、「私は女の子だけど、鬼と戦いたい」と言ったとき、その言葉を否定せずにともに考え、ともに時代を歩んでいく』ための応援歌みたいな作品群でもあるということです。

最後にもうひとつ別のnote記事を載せておきます↓。

私も最も身近な男である夫と「男と女」ではなく「人と人」として付き合えるようになるために精進の日々を送っていますが、そんな夫はやはり鬼滅の大ファンですw

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?