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月と密教(1)

きっかけはヒッキーがインスタに投稿していたこの高島野十郎の画集だった。

いや、高島野十郎なんて人はまったく知らんかったけどね、満月ってところに惹かれて調べてみたんだわさ。
まあそれまでも旧暦生活ではあったたんだけど、去年11月の月食以降はさらに月づいていてカレンダーもかたっぱしから月齢のに変えたぐらいどっぷり月にはまる。
西洋は太陽だけど月はインドなんだよね。で、仏教もインド系だから月が大きな意味を持っている。タイやミャンマーなどの上座部仏教国では今でも満月の日に盛大なお祭りがおこなわれている。

ああそういえば、始まりは2014年にミャンマーのシュエダゴン寺院で遭遇したこの満月の日のお祭り↓だったのかも。

で、2017年には妹と高野山に行って宿坊で月輪観瞑想を教わってきた↓。
ところでなんかオーブだらけだぞ、この写真(笑)。まあ科学的に説明をすれば、暗い室内でフラッシュ焚いて撮るとその光が舞っている埃に反射してこうなる。
ついでに、この時はお坊さんによる読経のあいだずっとすごい嵐でびびったっけ。嵐を呼びオーブまで呼びよせる超絶雨女な私(笑)。

かくして、高野山、真言密教、月輪観ときて冒頭の高島野十郎に話は戻る。
ヒッキーの紹介した画集の表紙にもあるように、この人は満月の絵とかローソクの炎の絵なんかを多く描いている人で、やはり相当密教に造詣が深い人だったらしい。
若い時には兄の影響で禅をやってたらしいんだけど、なぜか禅を離れて密教にどっぷりとはまっていく。
というわけで、「月とローソクとくればやはり仏教と瞑想がらみでしょう」という私の読みはどんぴしゃだったのでした。
いや、田中一村さんも奄美に行くまで知らなかったけど、高島野十郎さんもヒッキーが紹介しているのを見るまで(つい最近よ)まったく知らなかった。
なのでネット検索したり本で調べたりしました。

まあね、唯識、華厳経ときたらあとは密教を残すのみなんだけど、私はどうもあのおどろおどろしい密教(チベット密教含む)が苦手でして、圧倒的に壮大なスケールの「華厳経派」なんですわ。
密教は一番最後に登場しただけあって時間空間ともにあまりにも開祖釈迦の教義とはかけ離れてしまっているだけに「もはや仏教とは呼べないかもしれない」ぐらいのことは思ってるんですよ内心。
マントヒヒとホモサピエンスぐらいは違っているといえるかも。だとしたらそれをマントヒヒと呼べるだろうか。変なたとえだけど。

日本に密教を請来した「空海さん(いわゆる弘法大師ね)」も苦手で、けど私が関心のある教養人の方々に空海フリークがやたらと多いので気にはなってたんだよね。ただ、「すごい人」であるのはわかるけどその「良さ」がわからない、みたいな。
でも私が尊敬する井筒俊彦が最後の最後でそれまで言っていたことを全部ひっくり返して空海の「初めに言葉ありき」に振り戻しちゃってたり。具体的にいうとこれは岩波文庫『意味の深みへ』の「七、意味文節論と空海」あたりのことで、これには解説を書いた斎藤慶典さんもいささか解釈に戸惑っておられるように思った(解説の「二、井筒東洋哲学の批判的検討に向けて」参照)。
で、それと同じ「戸惑い」が私にもずーっと残り続けてるんだわ。
つまり「( ,,`・ω・´)ンンン?『初めに言葉ありき』って、それホンマかいな???」ってことなんだけど。
ここらあたりには松岡正剛さんとかも絡んでいて、そこに新たに高島野十郎さんが参戦してきた感じ。
これには華厳の「事事無碍法界」が大いにかかわっているなりよ。
ついでにユクスキュルの「環世界」だとかカルロ・ロヴェッリの『時間は存在しない』とか『世界は「関係」でできている』なんかで説明されている量子力学的時空概念も関係しているし、最後にどどーんと南方熊楠が控えていたりもする。
なんとも「濃い」面子ばかり。

この話、つづく。


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