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鑑真と唐招提寺

11月に友人たちと奈良旅行した際に唐招提寺も訪れた。
唐招提寺には記憶の範囲内ではこれまで行ったことがなく(小学校の遠足とかで来たことがあったかもしれないが、覚えていない)、ぜひ訪れてみたい場所だった。
だがそのとき境内を歩いている私の脳内にこだましていたのは、なぜか、
「鑑真はあれほど苦労して日本にやってきたのに、最後には疎まれていた」
というフレーズだった。

今でも日本「以外」の仏教国では僧が戒律を守ることは「絶対条件」であり、日本のようにお坊さんが酒を飲んだり、ましてや妻帯して子供がいるなどということは「ありえない」こととされている。
したがってそれら仏教国の人々にとって「日本の仏教は仏教とはいえない」ということになり、これはもうはっきりとそのように言われている。
このように今でも仏教国では出家するには正式の手順を踏んで「受戒」しなければならないのだが、聖武天皇の時代、今でいう「租税逃れ」のために自分で勝手に僧と名乗るいわゆる「私度僧」の増加に悩まされていた。

「宗教団体非課税」とか「タックスヘイブン」とか、いつの世も同じことを繰り返すのが人間というものらしい。

いろんな意味で「それでは困る」ということで、唐の先進的受戒システムを授けることのできる僧を求めて、興福寺の栄叡、普照らが唐に渡った。
唐に渡ったもののまず人選に難渋し、誰も日本に行きたがらなかったせいでけっきょく名僧鑑真自らが日本に赴くことになる。
唐の国法を破っての渡航である。
最終的に鑑真6度目の渡航で、失明までしてようやく来日がかなった。
西暦754年のことである。

もちろん国内では天皇をはじめ大歓迎ムード一色だった。
Wikipediaにその様子が記されている。

天平勝宝5年12月26日(754年1月23日)大宰府に到着、鑑真は大宰府観世音寺に隣接する戒壇院で初の授戒を行い、天平勝宝6年2月4日に平城京に到着して聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することとなった。
4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けた。これが日本の登壇授戒の嚆矢である。
併せて、常設の東大寺戒壇院が建立され、その後、天平宝字5年には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されていった。
Wikipedia「鑑真」より

…ところが、である。
当初から鑑真と朝廷側の思惑は異なっていたのだが、やがてそれが露呈することとなる。

名僧鑑真の来日の目的は、当然のことながら日本における正当な仏法の隆盛にあり、一方で朝廷側の思惑は「私度僧を減らして税収を増やすこと」にあった。
だから朝廷側としては受戒により正統な僧をどんどん増やされては困るのだ。

第二第三のビールにも課税するように、いつの世にも同じことを繰り返すのが官吏というものらしい。

そのあたりの事情については、以下のブログに詳しい(太字は私)。

鑑真は僧侶を減らす為に来日したのではない。正しく仏法を伝えた上で、多くの僧を輩出するつもりだった。彼は全国各地に戒壇を造る為に仏舎利を3000粒も持参していた。一方、朝廷の本心は税金逃れの出家をストップさせること。両者の思惑は対立し、758年、鑑真は大僧都を解任され東大寺を追われた。鑑真は自分が財源増収のため朝廷に利用されたことを知る。あの命をかけた渡航や栄叡の死は何だったのか。「こんなハズでは…」既に70歳。海を渡って唐に戻る体力はなかった。
759年(71歳)、そんな鑑真の境遇を知った心ある人が、彼に土地を寄進してくれた。鑑真は私寺となる『唐招提寺』を開き戒壇を造る。「招提」は“自由に修行する僧侶”という意。この非公式な戒壇で授戒を受けても、国からは正規の僧とは見なされなかったが、鑑真を慕う者は次々と寺にやって来た。鑑真はまた、社会福祉施設・悲田院を設立し、飢えた人や身寄りのない老人、孤児を世話するなど、積極的に貧民の救済に取り組んだ。
「あの人の人生を知ろう ~ 鑑真和上」より

だが、そのような「朝廷の思惑」とはまったくかけ離れたところで、鑑真が日本にもたらしたものはとてつもなく大きかった。
日本仏教における二大巨頭である最澄と空海も「鑑真がもたらしたもの」によってやがて大きく羽ばたいていくことになる。

鑑真は、厳しい小乗仏教の戒律を学び南山律宗の後継者とされましたが、同時に中国天台宗も深く学んでいました。
さらに密教や浄土教も学んでいました。
単なる学僧のレベルを超えて、鑑真はその当時の主要な中国仏教に精通した大学者でもあったのです。
日本の朝廷が鑑真に期待したのは、正しい戒律のあり方を日本僧に教え、正式の受戒を日本でもできるようにすることでした。
鑑真はその期待に応えるべく尽力しましたが、同時に大乗仏教系の多くの経典も日本にもたらしたのです。
「最澄、空海を中国へと導いた鑑真」より

そのようなわけで、あの日、唐招提寺の境内で私の脳内にこだましていた
「あれほど苦労して日本にやってきたのに、最後には疎まれていた」
というフレーズの裏にはこのような物語が秘められていたのである。
もちろん、そのことにはなにがしかの「霊的意味」があったのだと、私はそのように思っている。

鑑真の話はまた別の不思議な物語へとつながっていくことになるのだが、それは次回に。

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